このたび、東洋館出版社から自治体や学校と東京大学CoREFによる協調学習を引き起こす授業づくりのための実践研究を基盤にした「対話力」(著者:白水始)という書籍が刊行されました。
2020年5月18日更新
ただし、現在の新型コロナウィルス感染症の影響で一般の書店(アマゾン等のネット書店も含め)ではまだ発売することができません。
購入を希望される方は、下記からお申し込みください。
http://www.toyokan.co.jp/book/14/b507208.html
現在は、いずれの書店でも入手できるようになりました。
なお、こちらのお知らせは自由に転送してくださって構いません。
本書に認知科学者鈴木宏昭氏からコメントをもらいました。
https://gshi.si.aoyama.ac.jp/hiblog/suzuki/?p=369
質問に対する白水からの返答です。
「社会と個人(一人で考えていた時には生み出せなかったものを生み出す主体はやはり「自己」ではないか)」と「デザインの主体(自分の学習は自分がデザインするものではないか)」というご質問二件ですが,確かに同根で,かつ今後追い求めていきたいところを鋭く突いてくださいました。
一点目について,ご存じの通り,三宅-白水ラインは,社会的構成主義の中でも,相当「個人」を重く見る立場です。というより,個人が自分の理解を深めようとするからこそ,他人が生きるとすら考えています。ですので,対話分析でも一人ひとりの表現の固有性にこだわります。
一方で,それならおっしゃる通り「対話の中で相手に伝えようと努力するのは自分であり、他者の意見を取り込みながら考えをまとめるのも、どこまで修正するのかを考えるのも自分だ」というところまで個人の意図的な主体性を認めてもよさそうす。なぜそうしないのかというと,こうした対話の始点と終点すらも,対話の場によって相当無意識に変わってくるからです。正確に言うと,対話を始めよう,あるいは伝えようと努力する時点では自分の意図通りに始まりますが,そこに相手のちょっとした違和感の表明や単なる首傾げがあると,人は無意図的に言い直そうとする傾向があります。そこで言い直したり,それを受けて相手がまた微妙に違うことを言うと,それが結果的にいろんな意見の並立につながります。そうなると,その並立状態に気持ち悪さを感じて人は意見をまとめたくなる傾向があるのではないか。こうした一連の傾向を引き出すのがやはり場の持つ力だと思います(波多野先生に言わせると,「内発的動機づけって社会的にしか生まれてこないですよね」なのです)。
それでは,「自己の経験、いわゆるフォーマルな教育、他者との対話の混ぜ具合、寝かせ方、表現の仕方(で理解,知識を創っていく)」に個人性はないのか,それは常に状況でしか決まらないのか,という点は,宏昭さんに賛成です。そこには個人差があると考えています。
昔,建設的相互作用における課題遂行者とモニターの役割分担が生ずるのは
1.場の力でのみ決まるのか
2.それとも場に関係なく課題遂行者はいつも課題遂行者など,個性で決まるか
3.場と本人の視点(個性といわずFocusと呼びましたが)の相互作用で決まるか
という問いを立てて考えたことがありました。
https://www.researchgate.net/publication/312694086_Focus-Based_Constructive_Interaction
昔,徹底的にいつもモニター屋を担いがちな先生が,生徒の立場でジグソーをやる状況に居合わせたことがありますが,あの方ですら一生懸命課題遂行者になるという意味では,場の力は強い。けれど,ある場に入るとき,先に手の動く課題遂行タイプと状況を見守るモニタータイプは確かにある,その各個人の「混ぜ具合,表現の仕方」の癖(あるいはもう少し非意図的なものの見方・考え方)と,場の特性が相互作用してその場でできることは決まってくるのだろうと思います。
そして,私にとって学習というのは,上記で仰っているような「混ぜ具合、寝かせ方、表現の仕方」を自分でより建設的な方に向けてバージョンアップしていくことではないかと考えています。
それでは,なぜそのこと(個人の主体性とそのバージョンアップ)をもう少し明示的な学習のメカニズムの要因として組み入れたり,学習目標に据えたりしないかというと,「学習者の主体性」の過度な強調につながるのを恐れているからです。
二点目のご質問への回答に徐々に入っていきますが,ジグソーを繰り返し経験する子供たちに対して,その挙句に「いつか自分たちで自分たちの学びの場をデザインできるようになってね」と頼むのは,とてもわかりやすい展開です。実際,私たちも期待はしています。けれどそれを明示的な目標にはしていません。なぜなら,少なくともいまの私たちにとって,「デザインされた場で学ぶ」ことから,「場のデザイン」へと移る道筋が,まだ明確に見えていないからです。手立てがないのに放り出すことと,「自分の学習なのだから自分にデザインさせればよい」という乱暴で単純なpedagogyが融合することで,教育の自己責任論みたいなものが流行るのを避けたいという思いがあります。
ただ,すでに認知科学の中にも人が協調をしたくなるときと一人で考えたいときを潮の満ち引きで表したKlahrの”Ebb & Flow”とか,岡田猛さんの紹介する,協調する相手を探すために自分が面白いと思った話を聞いたときに相手も目が輝くかを見る”Eye shining test”など,有望な構成概念や工夫はあります。それらを使って,子供が自分が学び続ける場をデザインする力―上の話からまとめると,自分の知性,知の限界を超えるための他者の使い方―を得ていくための支援を考えていきたいと思っています。
いま一番狙っているのは,その出発点としての問い,問うことの研究です。もう少し長いスパンだと人生の曲がり角の曲がり方を切り口にそこを追求していきたいと思っています。デザインされた場の学びにひたって,学んで,でもそこに疑問をもって(これが曲がり角),場をアレンジして,気がつけばデザインできるようになっていくプロセスを支援できないか,と。嶋田さんの例も(勉強になりました)ある種の認知神経科学のカルチャー,プラクティスに対する問い直しがあって,人生の角を曲がっていったものだと思います。LatourがPasteurization of Franceでパスツールの研究人生に適用して見せたような(下記),角の曲がり方,問うことのモデル化とその教育実践への落とし込みが次の大きなテーマだなと,この本を書きながら思っていました。まさにそこにご質問いただいたので,非常に励みになりました。恒例の我田引水ですけど。https://www.nier.go.jp/shirouzu/publications/pub_14.pdf
ありがとうございました。では,また。