本コンテンツは岩波書店 (1997/07)より発刊された「インターネットの子どもたち (今ここに生きる子ども) 」の内容を掲載しております。
掲載内容は執筆された時代背景を考慮し、書籍発行当時のままになっております。
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1.英語教育の常識を見直す
英語という教科とインターネット
インターネットでつながれた世界が、うまく使えば学びの場を提供しそうだ、ということを見てきました。そのための心構えとして教育についての見直しが必要らしいという話もしてきました。では、私たちが今実践に参加しようとしたら、どんな取り組み方が可能なのでしょうか。
今具体的に、ある教科、たとえば英語をインターネットを使って教えたいと思ったら、そこではどんなことを考えていく必要があるのでしょうか? インターネットを使った学びとこれまでの学びとではいったい具体的に何がどこまで違うのでしょうか? ここでは、それを考えていくことにしまず。
まず、インターネットで英語を学べると考えるかどうかは、英語を学ぶということがどういうことだと考えているかによります。教科書にある英語を訳せるようになることとか、もう一歩突っ込んでシェイクスピアを訳せるようになることが英語学習の目的だと考えるなら、インターネットはおそらく不向きでしょう。いや、英語は自分が知りたいことを知るための、コミュニケーションの手段だ、と割り切るなら、インターネットは相当に活用できるはずです。
インターネットの利用価値が最も高いのはどのような教科かと聞かれた時、ことばが関係してくるから英語、というのが一つの典型的な答えだろうと思います。実際、こちらが書いた英文を送ると添削してくれる「文法教室」のようなものもネット上にありますが、「ネットで英語」という場合、ふつう日本人が期待するのは、コミュニケーションの手段としての英語を学ぶ場としてのインターネット、ということでしょう。つまり英語を使って何か一つのテーマについてやり取りできるようになることが目標になっています。
ただ、人が普通に英語を「使って」いる場所で一緒に英語を使っていれば学べるかというと、話はそれほど単純ではありません。言語の教えや学びは、ネットを介すると、これまでほとんどの日本人が「これが英語の勉強の仕方」だと思っていたものから相当の変貌を遂げざるをえなくなるのではないかと思います。
英語教育の「真実性」(authenticity)
第四章で紹介した教育の真実性ということばで問題にされるのは、「今、ここ」で教えていることが、「将来、どこか」でほんとうに役に立ってほしい知識や技能にきちんと対応しているか、どこまで対応するべきか、という議論でした。英語教育で言えば、たとえば受験用の英語教育が、「本来英語教育で教えようとしている知識や技能が実際必要になる場面」をどれほど忠実に反映しているか、あるいは、どれほど忠実に反映しているべきか、という問いです。
受験の長文読解問題に出てくる内容が政治の話だったとしましょう。こういう場合、問題を作っている側は、「英語」の問題を作っているつもりであっても、政治に強い受験者のほうが有利に(多少英語が弱くても)解けてしまう問題は「よくない」問題だと判断されるでしょう。しかし、この受験者が将来官僚になったとして、アメリカに交渉にいったときに「利く」のは、明らかにそこでの政治の話題に強いかどうかであり、発音や文法の力は二の次です。そう考えれば、真実性を増すためには、将来政治家になる学習者にはガリガリの政治論文を読ませたほうがいい、政治の話に強くて点がたくさん取れることはいいことであって、英文法に強いから点が取れるのではなくてもかまわない、ということにもなるのです。
英語教育に真実性を持たせるためにインターネットの役割が期待されています。たとえば、次のような期待です。教室にパソコンが一台あれば、教室の壁を越えて授業を世界に直結させることができるでしょう。「先生のため」や「明日のテストのため」に英語を勉強するのではなく、ネットでつながったどこかの、英語を使う「生きた」学生とほんとうに話をするために英語を使うことができるはずです。インターネットが利用できれば、本物のコミュニケーションのための英語が教室に居ながらにして学べるではありませんか。ネットを利用するだけでなく、マルチメディア技術を駆使すれば、文章のやり取りだけでなく音声や映像つきで、臨場感のあるコミュニケーションが学べるはずです……。ほんとうでしょうか?
これらは、ある程度まではほんとうです。けれど、本物のコミュニケーションが扱えるだけに、今まで教科書と黒板とテープレコーダーでやっていたのとはまったく違う、雑多な新たな問題が次々と出てきます。第一に、コミュニケーションの相手の使う英語が「正しい英語」とは限りません。「正しくなくてもコミュニケートできる英語」の力を狙うのか、やっぱり別の人とも別のテーマでも話をするかもしれないから少しでも汎用性のありそうな「正しい」英語に固執して「ネットの窓」は閉じるか、どちらか片方にしてしまうのは惜しいとしたら、いつどんなときにネットの窓を開くのか、いずれも簡単に答えの出る問題ではないでしょう。けれど、インターネットを英語教育に使おうと思ったら、勘を頼りにでもこれらの問いに一応の答えを見つけなければなりません。
話がここまで来ると、真実性の問題というのは、実は、何を教えればよいかという教育目標の問題と結び付いているのだということがお分かりになるでしょう。学校教育の目標は、受験ではありません。そこまではいいとして、むずかしいのは、受験ではないとしてでは何を目標にするのかです。目の前の学習者が将来どんな場面でどんな英語を使うようになるのか、今決めることはできません。ということは、具体的にこれこれの英語を身につければよい、という形では教育目標が設定できないのです。
「そうだよな、だからあんなこむずかしい内容の長文の読解練習なんてくだらないよな」というところまではいいとしても、それなら何を「くだらなくない」レベルの目標にしたらいいのか、つまり長文がすらすら読めて理解できること、という教育目標の代案をすぐに提案できますか? と聞かれたら、誰だって困るはずです。そんなことは専門家だってできないことです。
インターネットを利用して、「知りたいことを知り、知らせたいことを知らせるための」英語教育を始めようとしたとたんに、じゃあ具体的には何をどこまで教えればいいのかということが分からなくなります。生徒が何をできるようになったときにインターネットの教育利用が成功したと言えるのか、それが決められないのです。分からない、決められない、ではどこへも先に進みませんし、真実性を少しでも大事にしたら、それぞれの教室でそれぞれの生徒が本気で興味を示してくることに従ってそれぞれまったく違う話題で違うレベルの話をしている可能性が高いですから、一人一人の先生がとにかく何をどこまで教えたらいいのかが分かるための努力をし、生徒の努力の結果を計る方法も当面自分で決めなければならなくなります。このようなことが、インターネットを利用した英語教育研究が考えなければならない基本問題の一つです。
英語教育の「足場かけ」(scaffolding)
先の章でもう一つ出てきた、教育に足場をかけてもいい、という考え方は、一人でできなくてもいい、に通じます。人間どうせたいていいつだってまず人に手伝ってもらっていろんなことができるようになるものだし、そのうちに手伝ってもらわなくても一人でできるようになるものだからそれでいい、そういう手伝い手伝われの世界が昔からの教えや学びの本来の姿なのだという、これも認知過程の観察・分析結果に支えられている考え方です。
英語を話すことについての手助けというのは、ちょっと考えにくいかもしれませんが、歴然とあります。少し込み入った話をしていてうまく言えないでいると、会話の相手が代わりにこちらの言いたいことをうまく表現してくれた、という経験をお持ちではないでしょうか。探していたことばを、聞き手が教えてくれることもあるでしょう。そもそも、うーん、うまく言えていない、とうなっても、相手は何とか理解してくれることもあります。それらはみな、言語使用が手助けを得て成立していることだと考えられます。これと同じような手助けを、英語の初心者が英語のプロから受けて会話が成立するなら、それは会話が成立しないよりよほどいい出来事ではないでしょうか。こうして、英語教育に「足場かけ」という考え方を持ち込むと、英語教育観はまた変わることになりそうです。
まず、この手助けしてくれる相手は英語によるコミュニケーションのプロがいいはずです。日本人の英語の先生は、シェイクスピアならシェイクスピアの話しかできない可能性が高いのですから(言語とは本来そういうものです)、もっとさまざまな話題についてプロの手助けする人を探すのがむずかしいなら、これもまたインターネットが威力を発揮することになります。ネットの上で自分の興味・関心を共有してくれる相手を探して「話し合う」のは、そういう生きた相手が目の前に出現するのを待っているよりずっと能率がよいと思います。ネット上のやり取りでも、今ならマルチメディア化している部分も多いので、「電話をかけ」たりすることすらできるでしょう。書かれた文章で、じっくり相手の言い分を読み、じっくりこちらの言いたいことを推敵に推敵を重ねて書くのも、英語でほんとうに言いたいことが言えるようになる正攻法です。
プロを相手に英語でコミュニケートする時、英語を直してくれるという以前に、こちらの英語がおかしくても、あちらがプロなら「分かって」くれるでしょう。これは、この教育実践の場が、先に問題にした真実性を大事にしていればなおさらそうなるはずです。真実性を大事にしているということは、あちらもこちらもほんとうにお互いによく分かっている話題について知りたいことや知らせたいことを交換し合っているということですから、もともともっている知識が多いので、相手が半分話をすれば「分かってしまう」ことが多いはずです。つまり、学習者は「半分話せれば」よい、ということになります。
さらに、こういうコミュニケーションを続けていると、その領域に関する特殊な用語や特殊な言い回しにはますます強くなるでしょう。教育の場の真実性は増し、豊富で質の高い手助けを大量に与えられて、学習者はどんどん英語でのコミュニケーションが得意になっていくはずです。
つまり、真実性を増し、よい足場をかけた英語教育をすると、ある特定の領域の話題に強くて、単語を忘れても相手に「あれ、ほら、あのー・・・」などと働きかけてその場で教えてもらうような実践英語力が身につきそうです。おそらくは、実際そうなるでしょう。少なくとも、上に書いたような流れが自然に感じられるなら、それでいいのかまでを考えて英語教育についての考え方を変え、覚悟のうえでインターネットを導入するべきだとは言えるだろうと思います。
2.実際ネットを使ってみたら
教科書教育とは違うむずかしさ
第一章で紹介した南中時の影の長さのやり取りなどは、実際ある国際ネットワークの上で行われていて、そこで私自身、インターネットで英語が学べるかという問題に直面してきました。ある時、日本の短期大学の学生が、アメリカの学生に向けて、いくつかの英語に関する質問をしたことがあります。たとえば、「日本人は冠詞の使い分けが苦手です。アメリカの人たちは、aとanとtheをどのように使い分けているのですか」というような質問です。当然、学生たちは教科書に書いてあるような答えが返ってくることを半ば期待しているわけですが、結果は、学生のことばによれば、「とんでもなかった」のです。
返事のなかで、アメリカ人の大学生が三人ほどでa eggが正しいのかan eggが正しいのかの議論を始めたのです。「これは発音上決まっているのだ」という日本人が知っている教科書的な説明も出てはきたけれど、「いや、アメリカ人がみんなそういうふうにしているとは思えない、自分の奥さんは明らかにa eggと言う」と主張する人まで現われて、日本人の学生は目を白黒させていました。こうなってしまった場合、これを後ろで見ている教師(この場合は幸か不幸か私自身だったのですが)にできることはほとんどありません。これを契機に学生たちが「ことばは生きて使われているものだ」ということとか、「それを教科書に押し込めて画一的に教えようという英語教育のむずかしさ」に気づいてくれればもうけものだなあ、など、夢のようなことを願うしかなかったのでした。
その反面、日本人は、教科書できちっと習わないこと、たとえば助動詞の使い分けがあまり得意ではありません。I will answerと書いてあるかI would answerと書いてあるかによって、答えを期待してよい度合はまったく違います。あるいはこちらが返事をします、というときに、このどちらを使うかによって、相手が答えを期待する度合もまったく違います。willと一度言ってしまったらもうとにかく締切までに返事をしなければいけない、という感覚が学生に分かっているとは限らないのです。ここを教師がちゃんと代わりに見張っていてあげなかったためにいらぬディスコミュニケーションを起こして学生に悲しい思いをさせてしまった失敗も、一度ならず経験しました。
英語の使い方に変化が見られるか
インターネット上で自分が「知りたいこと/知らせたいこと」のコミュニケーションのために英語を使う経験を積むと、英語の使い方、いわゆる英語力に変化がみられるものでしょうか? 二年間にわたってこれを調べたことがあります。いわゆる英語のテストの点が上がるかどうかを調べるだけでは不十分でしょうから、調べ方そのものをいろいろ工夫しました。
テストに一番近いものとしては、アメリカのテスト作りの専門家が集まってつくっているTOEICという標準テストで調べたところ、点数が上がる人と下がる人が両方いて、単純に点が上がるというものではありませんでした。これはむしろ自然な結果で、もともとインターネットの上での英語使用は特定のテーマについてのもので、TOEICが測っているのはもっと「一般的」だと考えられる英語試験受験力であることの反映だと考えられるでしょう。
影響が出たのはむしろ英文の穴埋め問題(ものすごく「テスト」的な問題だと思われるかもしれませんが、じつはこれが実際のコミュニケーションの能力をかなりよく反映することが知られています。日常的な会話でも、ちゃんと聞き取れなかったことばを自分で埋めることができれば、会話は成立します。誰か先に読んだ人がコーヒーをこぼして一部読めなくなった新聞でも読めるなら、それは相当の言語使用力があることを意味します)の点数や、他人が書いた手紙を読みやすく直す問題でした。
穴埋め問題では、ネットワークでのメッセージのやり取りの経験量が多い人たちのほうが成績がよくなる傾向がありました。手紙直し問題では、経験のある人たちは、直さないと誤解されたり不的確な文になってしまうような場合には直しますが、きちんと意味がとれそうな場合、たとえばあきらかなスペルの間違いなどはむしろそのままにしてしまう傾向がみられました。「英語が使える」ということを、「英語でなんとか話が伝えられる/受け取れる」という意味にとると、こういう結果がむしろ自然なのかもしれません。
英語を書く力がつくか
もう一つ、では英文を書く力そのものがつくかどうか、について調べた結果を報告しておきます。学生の活動をそばで見ていて感じるのは、一年以上もネットワークを使った活動を続けていると、確かに量をたくさん書くようになる、ということでした。これをちゃんと調べてみたかったので、次のような作業をしてもらいました。まっさらのA4判の紙を 1枚わたして、「これから15分間、何でもいいですから英語で何かその紙に書いてください」とだけ頼みます。ただ、書き方があって、最初の五分は黒のボールペン、次の五分は青のボールペン、最後の五分は赤のボールペンで書いてもらいました。書き始め、途中、終わりごろにそれぞれどんな書き方をするのか、見たかったからです。
この作業を、ネットワーク経験のある学生と、入学時にはそれらの学生と英語力がほぼ同じだった学生とで比べてみました。そうしたら……、実は、ネットワークの経験者がたくさん書けるというわけではなかったのです。最初の5分間くらいは、ネットワーク経験者が少したくさん書くのだけれど、中盤になるとガクンと落ちます。中盤だけ比べると、ネットワークを経験していない人たちのほうがたくさん書くくらいなのです。最後の五分になるとまたネットワーク経験者が持ち直してくるけれど、経験していない人たちに比べて特に多いということはありません。
なぜこのような結果になるのでしょうか? 字数だけを比べてみると一見不思議な気がします。けれど、書いている内容をもう少し詳しく見てみると、どうもそれなりの理由がありそうです。「何でもいいから書いてください」という頼み方がけっこう暖味なので、ネットワークを使っていつも英語でやり取りしている学生と、そうでない学生は、違う作業を頼まれたと思った可能性があるのです。
たとえば、ネットワークを使っている学生が書いたものには、内容に何らかのつながり、テーマ性があります。なかにはいきなり「私の家族」というタイトルをつけて書き出した人もいました。だから、始めはいいけれど、作文が中盤にさしかかってくると、「何をどう書くか」が問題になってきてしまって、量が落ちるといったことがあったのでしょう。ネットワークを経験していない人たちが何をしていたのかというと、これは「字数を競うテスト」であったようです。だからこの人たちの書いたものには、「ところで」という接続詞をたくさん使って断片的なことを書き連ねたものが多いのです。テストというものは、一筋縄ではいかないものです。
3.使う態度としての英語
使われる場所
ことばは抽象的なものと思われがちですが、人は抽象的な場面に生きているのではありませんから、実際に人が話をしているときには相手がいたり、何かを伝えなければならない切羽詰まった理由があったりします。「おはようございます」「こんにちは」「お元気ですか」「元気です」という一連のやり取りが滑稽に聞こえるのは、実際こういうやり取りがなされる「場」というものが現実にはほぼけっしてないことを私たちが知っているからでしょう。
こういう使われる場に対応して英語を学ぶとはどういうことなのでしょう。それは、一 つには、話す内容に即した学び方をする、ということになります。心理学の話をするなら心理学の話をするための、お産の話をするならばお産の話をするための英語というものがあります。
昔、私がまだ大学生だったころ、今でいうダブルスクーリングをやっていて夕方英会話の学校に通っていたのですが、そこに毎夕きちんと和服を着て英語を学びに来る女性がいました。話をしてみると、将来アメリカで日本舞踊を教えたい、そのために英会話を習っているというのです。こういうやり方は「使われる場に即して英語を学ぶ」例でしょう。英語学習の真実性を大事にするなら、こういう態度が身につくことがまず大切なはずです。
この場合、当然問題になるのはその英会話学校に、日本舞踊の話の相手をしてくれる先生がいたかどうかですが、当時そういう先生はいなかったような気がします。ネットワークが有利なのはこのあたりのことで、相手を選ぶ自由度がとても大きいから、うまくすれば日本舞踊は無理としてもモダンダンスなど舞踏系のパフォーマンスについて好きなだけ議論ができる相手も見つかりやすいということでしょう。教育の真実性について繰り返し話してきたように、英語を学ぶときに話したいこと聞きたいことが決まっているなら、そのテーマに沿って学べたほうが有利です。ネットワークにはそういう学びの場を提供できる可能性があります。
「がんばれば使える」という感覚
そういう面から先ほどの私自身の実践を振り返ってみると、ネットワークを経験した学生で変わったのはテストで測れる英語力より、英語に対する態度だったのではないかと思います。一年から一年半ネットワークでの英語によるやり取りを続けると、「英語を学ぶうえで大事なのは、英語で何の話がしたいかが分かっていること」といった意見を持つようになります。「今の自分の英語力で、ある程度のことはできるはず」という感じを持つようになった学生も少なからずいました。
客観的に見て実際に標準テストで測れるような英語の点が上がっているわけではないのですから、この「自信」はむしろ使い慣れたこと、英語がうまくなったわけじゃないけれど、以前は使ってさえみたことがなかったから使えないと思っていた、それが違った、けっこうがんばれば使える、という感覚だったのではないでしょうか。こういう感覚をもてることが、これからこの学生がほんとうに英語を使ってその力を伸ばしていく基礎になるだろうと思います。
ネットワークを経験した学生たちにとって、英語は、教科書英語(教科書に出てくる可能性のあるテーマなら何でもある程度は扱える英語)ではなくなっていったようです。ネットワークを使っての一年半のゼミを終えるころ、「どんな先生がいい先生だと思われているのか」についての国際比較をやっていた学生に、"Time"の教育関係の記事を見せたことがあります。彼女はそれを見て、「教育の話ですか? だったら読めるかもしれない」と言いました。この時、英語は、この学生にとって、教育という特定の分野について自分が話したいことを話すため、知りたいことを知るための道具として考えられ始めていたように思います。
4.英語の教えや学びには準備がいる
いくつかの実践を通して分かってきたことは、英語を学ぶという場合、英語で何の話をしたいのか、そこをかなり詳しくはっきりさせておいたほうがいい、ということ です。その意味で語学を学ぶのには準備がいります。
ウェブが使えるようになって、学生一人一人の興味や関心に従った教材を探すことは前より簡単になってきたと思います。けれども、自分が何に興味があるのかわからないままウェブを見ても、どこも同じように見えて退屈してしまうものです。「興味さえあれば、ウェブを使えば教材は無限にあるからいくらでも英語の勉強ができるはずだ」と言うのは、正しいようでいて、「英語が好きなら学べるはず」と言っているのとそれほど変わらないような気がします。
そうではなくて、実は興味があるテーマについては、いろんなことを知っている、どんなことが話題になりそうか、ある話が始まったら大体どんな展開になりそうか、もっと具体的に英語の言い回しだって少しは知っているかもしれない、そういう知識がことばの使い方を確認していくうえで決定的に役に立ちます。それだけの準備があって英語を学ぶほうが、そうでないよりはずっと有利です。
そういう知識を学ぶ人につけることはもう英語教育の問題ではないよ、という人もいるかもしれません。でも、そうであるならなおさら、学生が「わたしはこういうテーマで英語が使えるようになりたい」と一人一人の希望を言ってきたとき、その希望に対応できるようなシステムが英語を教える側に必要だ、ということになってくるのではないでしょうか。
そして、こういうシステムを作り上げていくためには、ネットワーク上に質のいいデータベースがあること、いろいろな領域の初心者と専門家をつなぐコミュニケーションのルートがあることなど、もっとネットワークが成熟していくことが必要だろうと思います。
繰り返しますが、何ができるようになったら英語が使えるようになったと言えるのか、その評価の仕方も変わっていかなくてはならないでしょう。大学入試に英語が出題されるから悪いのではありません。英語の出題の仕方がまだまだ未熟なのだ、と考えてみることも必要だと思っています。