よみもの特集 インターネットの子どもたち

いまインターネット最前線にいる子どもたちは、何をしているのでしょうか。学びや遊び、コミュニケーションなど、子どもの諸活動は、インターネットの普及とともに、どんどん変化しようとしています。現状を報告しつつ、子どもたちがどうしたらコンピュータを自己表現のための創造的メディアとして使いこなせるようになるかを考えます。

  • 第一章 インターネットがやってきた
  • 第二章 インターネットで学びは変わる
  • 第三章 インターネットを教室へ1
  • 第四章 インターネットを教室へ2
  • 第五章 インターネットで英語を学べるか
  • Coming soon!
  • Coming soon!
  • Coming soon!

本コンテンツは岩波書店 (1997/07)より発刊された「インターネットの子どもたち (今ここに生きる子ども) 」の内容を掲載しております。
掲載内容は執筆された時代背景を考慮し、書籍発行当時のままになっております。
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インターネットの子どもたち ePub/mobi版について

謝辞
このコンテンツ作成にご協力いただきました出版社及び関係者の皆様に御礼申し上げます。(制作担当)

第一章 インターネットがやってきた

1.世界じゅうの南中時の影の長さが分かるとしたら・・!

インターネットによる南中時の実践

 11月の初めの天気のいい日、ちょうどお昼ごろ、日陰のない平らなところで1メートルの棒を垂直に立てて、その影の長さを測ったらどのくらいあるものでしょうか。東京だと、1メートル25センチくらいになります。「11月の初め」だとか「東京」だかと断わったのは、季節が違ったり場所が違ったりするとこの長さが違うからです。その意味では「ちょうどお昼ごろ」というあいまいさも大事なので、昼日中に1日のうちでこういう影が一番短くなる時があって(正午とは限りません)、そのような事象を「南中」と呼びます。そんなことを覚えておいでの方もあるでしょう。

 この南中時での1メートルの棒の影の長さを同じ3月の始めごろの、できれば同じ日に世界のあちこちの学校で測って、お互いに知らせ合うとします。たとえば、富山の影はどのくらいの長さでしょうか? 東京とそうは変わらないに違いありません。では、イリノイ大学のあるシャンペインという町だったらどうでしょうか? 東京より緯度が少し北になるので少し長くなって、1メートル41センチくらいです。

 それなら、ずっと北の、たとえばアラスカ州の首都、フェアバンクスはどうでしょう(首都のあるフェアバンクスは、アラスカといっても例の北米大陸の左方に大きく張り出しているアラスカ半島にあるのではなくて、大陸の緑に張り付いているような部分、アラスカにしては南端にあります)。見当がつかれるでしょうか?

 これは、実際私が関係した実践教育で起きた、ネットワークを利用したデータのやり取りです。フェアバンクスの影は、東京のそれよりは相当に長いだろうと思ってはいました。いましたけれど、フェアバンクスから「こちらの影の長さは5メートル57センチ」という知らせが来たときには少々びっくりしました。5メートル半以上もあるなんて、私だけではなくて、私の周りの大学教師たちも誰も予想もしていませんでした。それどころか、急に5メートル半といわれても、どのくらい長いのか即座には見当さえつきません。身長160センチくらいの人の普通の歩幅(爪先から次の1歩の爪先まで)が40~50センチですから、5メートル半というと11歩から14歩くらいはあるでしょう。実際立ち上がって少し大股目に3歩歩いてみてください。ずいぶんとたいそうな長さだ、と改めて思われるのではないでしょうか。そもそもたよりない棒のきっさきの影がどこだか、東京の1メートル25センチの影でさえそうはっきりと「ここが頭だ」とは分かるわけではありませんでした。それから考えると、棒の足元から5メートル半も先が棒の頭なのです。棒の足元から5メートル半も先で棒の頭の影がちゃんとそれと分かるものなのかと、いらぬ心配ごとまでしたくなりました。しかし、生徒たちには内緒でそっと天文年鑑を開けてそこにあった数値(天文年鑑には緯度ごとの南中時の太陽の角度が出ています)から計算してみると、この値はかなり正確な値でした。授業を担当してくれた富山の小学校の先生は、実際5メートル57センチの長さの紙テープを用意して教室で子どもたちに見せました。この長さは、大人が驚くくらいですから、子どもたちもずいぶん驚いてくれました。

 驚いてくれるだけであっても、それは知的な興奮をともなう驚きですから、それでもうある種の教育的な目的を達成していると言っていいのかもしれません。けれど、教室でこのたぐいのデータが使えるなら、これを使って何かおもしろい授業ができないものでしょうか?

 1988年にこの実践をやった時に参加していたのは、東京、富山、フェアバンクス(アラスカ州)、シャンペイン(イリノイ州)のほかにサンディエゴ(カリフォルニア州)、ティファナ(メキシコ合衆国)、イェルサレム(ィスラェル共和国)の各都市でした。これだけでやり取りをすると扱うことばも多くなって大変だろうと思われるかもしれませんが、このプロジェクトに限っていえば、データは数値なので、やり取りするのは数字だけで取りつきやすかったのです。このプロジェクトに読者が参加していたとすると、たとえば、表1のようなデータが集まってくることになります。教育に関心を持つものの目から見ると、このようなデータが手に入るなら、ここから何が言えるだろうか、またこれを使ってどんな授業が可能だろうかという問題が生じてきます。

データの性格と授業の展開

 影の長さが分かれば、そこから逆算して太陽の角度が分かります。これなら「太陽の動きと季節」といった単元で使える、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。ところが、このデータのやり取りそのものからは、太陽の動きと季節の話をするのは少々むずかしいのです。

 なぜならば、同じときに、世界のあちこちで測ったデータが集まってくるわけですから、そこにあるのは世界の空間的な広がりを表わしているデータであって、時間的な変化を扱ったデータではないからです。だからこのデータだけからは、太陽の「動き」も季節の変化も見えてはきません。見えてこないものを無理に見ようとしてさらに苦労を重ねるよりは、今ここにある近似的に同時刻の影の長さの違いが直接役に立つような展開があるといいと思います。

 

2.一つのデータからいくつもの授業が生まれる

データと子どものインタラクション

 南中時の影の話をまずしたのは、私がいろいろ見聞きし、自分でも直接かかわって経験してきたさまざまなインターネット利用のカリキュラムのテーマのなかでも、これがけっこういろいろな意味での代表選手だと思えるからです。インターネットを利用して国際協力するといったところで、なにもどこかの国語を使わなければならないというものではありません。数字や記号のやり取りで十分ということも多いのです。

 やり取りしなければならないのは、それぞれの風土を背後に控えた意見交換というものばかりではなくて、プロジェクト(極端には何をいつ送り合うのかについての確認とも言い換えられます)がしっかりしていさえすれば単なるデータのやり取りで構わないのです。

 しかも、データがやり取りされるのであれば、あるいは、データのやり取りだけでいいのなら、かえって一つのセットのデータを元に実にさまざまな実践が可能です。現行の「教えなければならないことのリスト」(日本では指導要領ともいう)に合わせようとすると少々無理があるようなデータでも、先生がそれぞれ「これ、何に使えるかなあ」と勝手に考えてくださると、味な展開ができたりするものです。そこに子どもたちの活動が加わってくると、データと子どものインタラクションが授業を作る、などということもありました。

 そんな例を一つ挙げますと、このデータを使って、小学生に代表値というものはどういうものなのかということを「教えるはめになった」実践もありました(先生がそのつもりで始めた授業展開ではなかったのであえてこう表現させていただきます)。その教室では子どもたちが六つのグループに分かれて、それぞれ棒を立て、その影の長さを測ることになっていました。六つのグループがそれぞれ計測を終えて教室に帰ってきて、データをグループごとに黒板に書いてみたところ、一つのグループの値が他のグループの値とはかなり違っていました。それを見た先生は、さあじゃあこの六つの値のうちのどれをネットの上の友だちに送りましょうか、と問いかけたそうです。

 このとき先生の頭には、これで平均値という考え方でも説明しようか、という漠とした期待はあったらしいのです。先生の期待通り、それぞれの値を全部足して六で割って「どのグループにもフェアな」値にすればいいのではないかという考えも出ましたが、その答えに不満な子どもたちもいました。主に、同じような値を出した五つのグループの子どもたちです。

 「一つだけ違う値を持っているあのグループ」と一緒にされるのはイヤだ、わたしたち五つのグループだけで値を足して五で割れば、わたしが測ったのとほとんど同じような値を地球の他の場所の友だちに教えることができるのに、どうしてあのグループと一緒にしなければならないのか、私たちのほうが仲間が多いではないか、というわけです。

 このあと、この教室ではここを出発点にして、代表値を決めるというのはどういうことなのか、平均値とは何か、できるだけ仲間が多い数を代表させるような代表値の決め方はないのかなど、子どもたちの議論を中心におもしろい授業が展開されたといいます。先生にそのような柔軟な対応を可能にするだけの知識と度量があったからでしょう。この場合、最後には結局六つの値をそのままネットの上にのせて、他の国でそれぞれ好きなように使ってくださいということになったと記憶しています。ちなみに、この話はアメリカ合衆国イリノイ州シャンペインの学校での話です。

国語の授業への発展

 さらに、影の長さのデータは国語の授業にも使われました。影の長さがこれだけ違うんだったら、同じ季節でも学校の周りの景色、空の様子、みんなが着てくるものなどが違うだろう、それを想像して詩を書いて、データを送ってくれた学校に送り返す、などの実践がなされました。先ほどこのデータ・セットは小学校の指導要領にある「季節の変化」を扱うのには適当ではないと言いましたが、適当でなかったら使えない、ということではありません。このデータを応用して、少し時期がたってからたまたまクラスの代表がシンガポールへ親善旅行に行った機会にそこでの影の長さを測ってきてもらい、なんとか季節の変化の授業にこぎつけた日本の先生も知っています。

 これで小、中、高の算数/数学/初等微積分、国語、理科、と揃いました。つまりこれだけのデータであっても、先生がうまくやれば、多岐にわたってさまざまな実践ができます。実際ネットの上を流れてくるデータ、それがただ数字の列であっても、それからどんな授業をイメージするか、どんな知をつくり出すかということは、先生や子どもたちの想像力にかかっているのだと思います。

専門家のデータを活用する

 自然科学の分野では、専門家とのインタラクションを基底においた実践として、学ぶものが専門家にとって価値のあるデータを広く数多く集めることで相互互恵関係をつくり出し、科学的な活動を共有することから学ぶ、というタイプの実践があります。ヨーロッパ、特にイギリスには昔から老人までをも含めたボランティアによる基礎データ収集活動があると聞きます。データの収集と集中、共有という図式は、ネットの強みがもっとも素直に生かされうる分野だと思います。

 なかでも、北米での酸性雨に関するデータを子どもたちが集めた話が有名です。コンピュータ・ネットワークが学校の授業に使えるのではないかという話が出始めたころ、アメリカ合衆国の政府系の気象研究所が、雨の酸性度を計るためのキットを希望校に配って地元の雨の酸性度を計ってもらい、そのデータを集めるのにネットを利用したことがあります。学校は、データを提供する代わりに、その研究所がまとめる報告書を受け取ります。そういう互恵関係の上で、学校の子どもたちをデータ集めに動員できるといろいろいいことがあるのです。たとえば、次のようなことです。

  • 子どもに、自分たちが一人前の科学者になったような気分を味わってもらうことができる。
  • 研究所の側は、安い費用でたくさんのデータを手に入れることができる。

 第1点は、子どもがいい気分になるだけではなくて、もう少し深い意味があります。こういう活動を通じて、子どもに、学校で習うことと世の中で大人が大切だと思っていること、知りたいと思っていることとのつながりを感じとってもらうことができると考えられるからです。大人も知りたいと思っているらしいことを教えてあげられる、そういうリアリティがあるからこそこういう舞台設定が子どもを学習活動へと誘うに足る動機づけを提供するのでしょう。第2の点については、子どもがとったデータで大丈夫かと不安に思われる方もあるかもしれませんが、データはプロの目で吟味すればある程度精度が分かるものですから、大丈夫らしいのです。「おかしな」データが送られてきたら、そこだけ重点的にほんものの研究者を送ってきちんと調べればいいのだそうです。実際このプロジェクトでは、このようにして、多数の学校が参加し、大規模な酸性雨地図が作られ、今でも新しいデータが追加されつつあるようです。ネットワークの教育的価値を多くの実践家、研究者に印象づけた出来事だったと記憶しています。

こういった活動があちこちで目につくようになったのが1980年代の後半です。その後ネットワークはたいへんな速さで増殖し続けています。ネットがあれば、小学生が、受け持ちの先生だけでなく、さまざまな分野の専門家に直接質問ができます。知りたいことに正確な答えが得られるだけでなく、質問する過程で質問の仕方や科学的発見の論理そのもの、事実の求め方そのものを身につけてくれるかもしれません。NASAやアメリカの大学の図書館、リサーチ・センターなどインターネット上に常駐する情報源は、英語をどう処理するか、という問題さえ対処できれば、今すぐ日本のどこの学校からでも利用可能です("Education on the Internet"や『インターネットキャンパス…欧米―○○大学ホームページ徹底活用法』というような手軽に役に立ちそうな本も次々でてきています)。

 

3.大学生たちのアイディア

インターネットによる南中時の実践

 こんな実践が出始めたころ、非常勤で集中講義に行かせてもらった先々の大学で学生に、ネットワークがどのように学校教育に利用可能か聞いて回っていました。やり方としては、ネットを使うという話は伏せておいて、まず「何年生に何を教えてもいいとしたら、誰に何を教えたいか、幼稚園から大学院までどこでもいいから教えたい大体の学年と、教えたい教科、あるいはテーマ」を選んでおいてもらいます。そのあとでだんだん教育に関連する認知科学的なものの考え方や、実際ネットワーク上で試されてきた活動などを紹介し、期間の最後に、「あなたが自分で教えてみたいといった学年相手に、あなたが自分で選んだ教科、テーマで実践するとして、ネットワークがどう使えるか、教案を考えて」という課題を出しました。

 受講生は、教えたい学年、教科別に二、三人ずつのグループに分かれてもらって、この課題を二時間くらい考えて、それぞれ教案のアイディアを発表してもらいました。最初に学年と教科を選んでいるので、「ネットワークでやりやすそうなこと」から入るわけにはいきません。最初の選び方が「悪い」と「小学校の三、四年生相手の体育で、国際ネットワークをどう使うかって?」というような「難問」に出くわすこともあるわけですが、とにかくこの自分たちで選定した問題について二時間考えて何とかアイディアを出してもらいました。

 とんでもない課題だとお思いかもしれませんが、ほぼ、どのような学年、教科の組み合わせであっても、二時間考えてアイディアが出なかったことはありませんでした。案外苦労していたのが英語であったりしました。国際的なネットワークの上では英語「を」使う、ということがむしろ前提であって、英語の時間に英語で「何を」考えたり話したりしたらいいのか、はそれほど明確ではないからかもしれません。むしろ、課題を聞いたとたんに「えーー、そんなのできないよ!」と文句を言うような体育や古文にほんとうにやってみたらおもしろそうなアイディアが出てきたものです。

さまざまな授業への提案

 〈現代国語〉や〈古文〉など高校生相手の国語系の授業への提案としては、大学で初めて文学を本格的に勉強してみたらおもしろくてたまらないという文学部の学生から、高校生のころから文学とは何かをちゃんと教えたい、という希望が強く出されたことがありました。ネットを利用すれば、文学が負う地域性、文学がその背後に持つ風土性みたいなものが教えられるのではないか、地域ごとによく知られている話を途中まで出して、その結末をつけてもらうというのはどうだろうか、アメリカならハッピー・エンド、フランスだと悲劇や皮肉で終わらないだろうか、などという期待があったのでしょうか。

 このアイディアは、その後、気に入ったのでやってみたいという先生が出てきて、実際試してみることになりました。アメリカの中西部の大学生と、日本の短大生が参加しました。アメリカから送られてきたのは「三匹の熊」の話だったので、日本人は「あら、知ってるわ」ということになってしまいました(話の結末、終わり方をみんなが正確に知っていたというわけではなかったのは見つけものではありましたが)。

 日本からは、竹取物語の冒頭が出題されました。竹から生まれた小さなお姫様はどんどん大きくなって、とてもきれいになって、さあ求婚者が五人もあらわれてしまいました、どうしましょう、というところまで説明して話を続けてもらったのです。アメリカ人からの回答しか得られませんでしたが、結果は十分おもしろいものでした。予想通りハッピー・エンドが多かったかといえば、そのとおりだったのですが、そのハッピーさの定義が日本人の学生には意外だったのです。想像がおつきでしょうか。アメリカではフェミニストが勝つのです。力があったり、才があったり、財があったりするよりも、家に留まって病人を助けるような男性がお姫様のハートを射止めるのです。お姫さまは全員を振って月に帰ってしまいました、なんていう話は無論なくて、日本の短大生は改めて日本の古典の斬新さ(と、日本文学の知られていなさ)を再確認することになったようでもありました。

 〈小学生中学年の体育〉を選んだ学生たちは、始めそうとう真面目に、こんな課題はできないと談判しに来ました。けれど、彼らが最終的にやってみたらと提案してくれた活動も、機会があったらぜひやってみたかった案の一つでした。彼らが提案してくれたのは、「世界のプロがみんなネットで話ができる、と仮定して」という前提を付けて、そのプロたちに、小学生のころどんな「練習」をしていたか、そのころの経験で今一番役に立っているのは何かなどを取材して、小学生自身に今どんな練習をしておいたらうまくなれそうかを自分で考えてもらおうというプロジェクトでした。

 彼らの予想では、いろんなプロから来る答えには共通点があって、それらはたとえば、「打球を遠くへ飛ばすのが気持ちよければ徹底的に遠くへ飛ばせるように努力する、つまり好きなことを十分楽しむ」とか、「一つの型にはまらないようにオフシーズンには別のスポーツをする」とか、今の小学生に対するスポーツ訓練に欠けている視点を持ち込んでくれるはずなのだ、というようなものなのです。ほんとうにそうなのかどうか、小学生と一緒に先生方が調べてみることができれば、結果が彼らの思いどおりではなくてもそれだけでいろいろ議論の種を提供してくれそうです。

 〈小学校理科〉や〈歴史〉は、インターネットの情報量が直接ものをいう教科です。最近では日本でも実をあげつつある実践もすでに試験的に実現されつつあるようです(たとえば『不思議缶ネットワークの子どもたち』美馬のゆり、ジャストシステム、1997年)。 美馬の報告でも触れられていますが、ここでむずかしいのは、小学生自身にどう問いを発させるかでしょう。問いは勝手に湧いてくるものではありません。ある程度のことが分かっていなければ、何が分からないのか、あるいは何が分かればうれしいのかさえ自覚できないものですから、よい問いを導くには、よいインタラクションが必要なはずです。答えも当然、何を言っても答えになるというわけではありません。

 答えるには、何が問われているのかを見抜く力、何が問われて欲しいかを答えの中で相手に伝える力、が必要でしょう。答え方、相互作用の持ち方で問いの生まれ方が変わってきます。そこのマネジメントがこういうプロジェクトを運営するものの腕の見せ所で、仕事量はとてつもなく多いでしょうが、やりがいのある仕事だと思います。

 また、〈物理〉や〈歴史〉など、ある特定のものの見方が定式化されている分野では、ネットによって定式化された知識そのものを見直せないか、というアイディアがあります。自然科学系の大学生からは、「高校生には、物理法則として教科書に載っているものが地球の上なら世界中どんなところでも成り立つのかどうか、実際各地で実験してみてその結果を寄せ集めて再検討するような活動ができたらよさそう」というアイディアをもらったことがありますし、大学に行って歴史を学びたいという高校生たちからは、「アラビアのロレンスをアラブ側から見たら、というような多視点思考が、ネットの上でならできそう」という希望が出たこともあります。

教科の内容を捉えなおすという視点

 これらのアイディアでおもしろいのは、教科の内容そのものが捉えなおされているように見えることではないでしょうか。英語をネット上で学べるとなれば、英語そのものを試験のために学ぶのとは違う発想が必要になってきます。歴史をネットの上で学びたいなら、いやでも多様な歴史観が要請されるでしょう。小学生に「角度ってどうしてひとまわりが360度なんていう中途半端な数なの?」と聞かれて返事に苦心しているあいだに、建築学専攻の学生に「いや、360でなくったっていいよ、家を建てたりするとき僕たちは100で計算することもあるんだから」と答えられてしまい、「数学は約束ごとと教えるべき」と改めて思い直した教育学専攻の大学院生もいました。

 ここで例示してきたような試みは、「教科の学び」が「教科内容の学び」から、「教科内容を材料にして、教科とか、教科を成り立たせている学問とか、人間の知とかいったものそのものについて考えることの学び」につながっていく試みでもあるように見えないでしょうか。インターネットが学びに結び付くとき、こういう学びの変化が起きる予感がします。

 
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