――三宅先生がアメリカの研究と深く接するきかっけとしては、やはり東-Hess日米幼児教育比較研究への周辺参加も大きな役割を果たしたのでしょうね。
三宅
当時アメリカ側のリサーチアシスタント・ヘッドだったPat Dickson さんとの出会いが大きかったですね。彼は1年間日本に研究留学して、日本とアメリカの橋渡しをしてくれたんです。
日本にもリサーチアシスタント・ヘッドがいればよかったのですが、日本はそういうシステムではないですよね。研究者がそれぞれ違う大学に勤めて、それぞれ教務担当者がいる。
東洋先生の所にも何人か若手研究者がいたけど、留学や就職で忙しかったんです。そういう中で私は落ち着いていたこともあって、まずはDicksonさんの日本語対応をすることになりました。段々データ分析やリサーチ内容の検討にも携わるようになり、博士課程に進む頃にはみんな安心して他の研究機関に移っていて、結局は私が日本側のアシスタント・ヘッドになったんです。Dicksonさんには、英語や統計などいろいろ教えてもらいましたね。
――はじめは周辺から参加していたのが、やがて研究の中心に入っていったのですね?
三宅
そうね・・・。私としては、私があの研究の中心に入ったという感じはしないんですね。
何本か論文を書いているんですけれど、メインの仕事だという感じはしなかった。
しかし、おもしろい仕事ではありましたね。
――では、それがアメリカに留学する直接のきかっけになったわけではないんですね。なぜアメリカに留学しようと考えたのですか?
三宅
日本の国際学会(International Congress of Psychology)でノーマンなどの発表を聞いて、こういう人の考えをもっと知る必要があると思ったのと・・・。
東-Hess日米幼児教育比較研究も、数百種類の変数で日米の親子を比べるという、いわば相関を探す話だったんです。基本的にこれしかできないなら、みんなが納得できることをうまく思いつけるかどうかで心理学の理論が決まる、本当のエビデンスはどこにあるのだろうか、教育の心理学がそういうものなら、私は他のことをやったほうがいいんじゃないか、なんてことを思ったりもしていました。
――なにか納得できそうな話があって、データを取りに行ってそれを確認する、といった感じがしていたんでしょうか?
三宅
そうね。やぶの周りをたたけばどこかに真理があるから「上手いこと思いついた人が勝ち」みたいな世界だな、と思っていたんです。
例えば関係ないアイテムを覚えさせると最後に聞いたアイテムの記憶はフレッシュだから残りやすいといった話は、ものすごくよくわかる話なんだけど、その説明がきれいであればあるほど、私には「だから何なの?」という感じがずっと残っていたと思う。 無意味つづりの場合、リストに含まれていたアイテムを探すほうが、含まれていなかったアイテムを探すより早いんですよね。リストに含まれていなかったアイテムを探す場合は、すべてのアイテムを操作しなくてはならないから。しかし、ノーマンは「人は『チャールズ・ディケンズの電話番号は?』と訊かれても、記憶を操作したりしない。ふつう『だって、あの時代に電話は存在しないだろ?』と応えるだろ」と言った。私はこの話を聞いて、ああ、これをやらないと心理学にならないな、と思ったんですね。
エビングハウスの忘却曲線の話なら、人は時間が経つにつれて物事を忘れてしまうわけですよね。だけど強く印象に残っていることは残っているし、思い出したくないことはやはり隠蔽する。小学校6年生のときに起きた普通のことと、小学校1年生のときに印象に残っていることを比べたとき、どちらを覚えているかといったら、後者なわけです。時間の関数だけではない、と実感できますよね。そういう複雑さを簡単にしてしまわず、本質に迫れないならおもしろくない、と思っていたんです。