三宅なほみの研究物語 三宅なほみ先生が紡いだ研究のルーツをや関心事を、先生からお聞きし、連載形式で沢山の方にお伝えしていきます。
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三宅なほみの研究物語No.5 東京大学 教育学研究科 修士課程 東-Hess 日米幼児教育比較研究周辺参加

三宅
東大に入ったら、図書館は広いし、いろいろな授業もやっているからおもしろいわ、と思って、あちこち見て回ったりしていました。それである日、図書館で本を読んだりなんかしていましたら、「ちょっと、英語の手紙が書けるって聞いたんだけど」と突然声をかけられたんです。東洋(あずまひろし)先生 の秘書さんが、先生に頼まれて、私のことを探しにいらしてたんです。

それで東先生に会いに行ったら、先生が突然、英語で話し始めたりして。しょうがないから、英語で答えたりしていたんですけれども、それは「英語で議事録を書いたり、話したりする人が必要なので、ちょっと手伝ってくれませんか」というお話でした。その頃、アルバイトじゃなかったんですけれどね、「おもしろそうだな」と思ってお手伝いすることになりました。
それで東先生との付き合いが始まりましたね。

行ってみたら、永野重史先生 波多野誼余夫先生 稲垣佳世子先生 三宅和夫先生 なんていう、名前だけは聞いたことのあった研究者の先生方が、わーっと集まっていたんですね。

その少し前に、アメリカで、ロバート D. ヘス (Robert D. Hess)  という人が、小さい子のいる家庭で親子が会話する時のことばの使い方によって、その子が将来学校に上がってからうまくいくかどうかが決まる、みたいな研究をしてその成果が有名になっていたんですね。そこからセサミ・ストリートっていう番組が出てきたり。で彼が最初にやったのは彼がシカゴ大学にいた時に近くの都会と農村を比較していたのだけれど、そのヘス先生がスタンフォードに移って、大きな研究費をもらって、同じ都会と農村の比較を日米の比較と組み合わせてやりたいという申し出があって、それを東先生が受けられたのですね。
アメリカと日本のそれぞれで都会と農村部を比較して、4つの比較で小さい時の母親との関係の持ち方が小学校以降の学校での成功不成功をどう準備するのか、はっきりさせようというような計画でした。

インタビュ-のイメージ

東先生は、戦後、日本の民主化のためにアメリカが全額資金を出してアメリカに留学した方でした。その恩返しとしてとのお考えもあったかもしれませんね、文部科学省や学術審議会からアメリカ側と同額の研究費を得て、国際的に日米が初めてマッチングファンドを取って、双方の研究案を持ち寄って対等の立場で検討する、という国際比較研究でした。
研究の母体の実験は、アメリカ側がそれまでの研究でも使ったものが送られてきました。でもそれだけやるのじゃなくて、日本からも、自然な場面での母子の関係の持ち方の観察方法や、母親の意識インタビュー、保育園の先生との比較などをしたいと提案したんです。先方も「それでいいよ」と受けて、結果として実現したのが日米幼児教育比較研究(東-Hessプロジェクト)です。

私は、修士に上がってすぐ、このプロジェクトが始まって1年後くらいのところで参加しました。私の東大大学院時代は全部これ。修士の2年と博士に入っての3年、修士論文で自分の研究したほかは全部。でも、これがすごい周辺参加だったんだなって今は思いますね。初めての日本とアメリカの対等な国際比較研究を、東洋先生という1つの頂点が「この人は」と思う研究者を集め、そこに院生さんたちが集まったチームに周辺参加できていたわけ。この中で、仕事の英語とリサーチの仕方、コンピュータの使い方や論文の書き方、研究者がどうやって共同研究を進めるのか、研究資金の取ってき方などを肌身で覚えたのだと思います。
扱っていたデータの中心が、3歳の子どもと母親の、3種類の実験の言語データなんですね。それをテキストにおこし、発話ユニットを決め、コーディングをし、その結果を当時紙だったコンピュータで読み取るためのカードにデータとして打ち込んでね、計算機センターまで自転車で運んで計算機にかけて結果を出す仕事を一通り引き受けていました。データが揃ったらそれをアメリカ側に送り、それぞれの基準で分析してみた後、共通に分析するには分析方法をどうするか、どの指標を使うか、とか、山のようにやり取りをしてなんとか合意したところで、先生たちが話し合えるようにデータと計算結果を見やすく準備する、そういうことをしていました。
先生がたが話している間に議事録を書いたりもしていました。日本の結果とアメリカの結果が同じ傾向を示さない、ということも多くて、そうなると基準を揃え直して分析もやり直してみたい、ということになるのね。でもやりたいだけやり直していると研究費の支援もとへの報告書を書くのが間に合わないとか、そういう話合いも含めて、日本とアメリカの違いの議論が続いていました。
中で私がやったことと言えば、データがそれこそ山のように出てくるので私が1人でカードに打ち込んでいたんじゃ間に合わないので、パンチャーを機械的にプログラムして、当時東京女子大学にいらした柏木恵子先生 が連れて来てくださった学部生さんに打ち込み方を覚えてもらい、朝から夕方までパンチの音をさせてデータの大量処理をしていました。そうしたら、テスト理論関係の先生から「あの人たちを、貸して欲しい」とお問い合わせがあったりしました。教えたはずの私よりずっと速くて正確でしたね、あの方たち。今どうしていらっしゃるかな?

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