話し合いで算数
10月号では、ジャスパー・プロジェクトと呼ばれるアメリカで開発された算数・数学教材シリーズの中から一つの課題を紹介した。こどもたちが教室で解く問題にも日常生活で出会う問題と同じような特徴を持たせてみたらどうか、というシリーズで、普通の日常生活場面を「マイクロワールド」としてビデオ仕立てにし、生徒にはその中で起きる問題を解かせる。問題は一人で解きなさい、というのではなくて、これも日常生活でなら普通そうするように、みんなでわいわい頭を寄せ合って解くことが奨励されている。
先号では、「傷ついたワシを救助するための最短移動経路を計算する問題」を、物語風に紹介した。主人公ジャスパーが牧場奥深くの釣り場で見つけた傷ついたハゲワシを、なんとか町の獣医のところまで運びたいのだが、彼は今、一番近いガソリンスタンドまででさえ歩いて5時間のところにいる。ウルトラライトという小型飛行機のようなものを飛ばせる仲間がいるので、連絡して、さてどうしよう?というような話だった。図を使って、どんな問題だったのかを振り返ってみよう。獣医と、ウルトラライトは、右図の左下カンバーランドにいる。そこから60マイル行ったところにはヒルダというジャスパーの友だちがガソリンスタンドをやっている(つまり、ここまでは車で行ける)。ジャスパーがハゲワシを見つけたのは、そこからさらに15マイル入ったブーン牧場で、ここまでは歩いてゆくしかない(車は入れない)。カンバーランドからジャスパーのいるところまで直接行くとしたら65マイルあり、ウルトラライトを使うしかないのだが、この飛行機は燃料満タンで飛んでも15マイル×5ガロンだから75マイルしか飛べなくて、ワシを拾った後、ヒルダのところへさえたどり着けない。幸い、ウルトラライトには、もう1ガロン余分につめる予備タンクがあるので、それを使うとなんとかなりそうだが・・・。という具合である。
前回との重複がだいぶ多くなってしまったが、まずこの課題の特徴から考えてみたい。そもそも具体的に解くべき問題が何なのかを子ども自身が決めなくては課題にならない。しかも、解き方もひとつではない。「そんなの、めんどうくさいよ」と嫌がられそうなものだが、この曖昧さを解きほぐそうとしているうちに、意外とはまる。カンバーランドからブーン牧場でワシを拾ってガソリンスタンドにたどり着くためには、余分なガソリンを積まなくてはならない。ラリーが操縦するとして過般加重からラリーの体重を引くと220ポンド-180ポンドだから後40ポンド積める。ワシは大体15ポンドだということがビデオの中でわかっているので、これでうまく行きそうなものだが、よく考えてみると、燃料と追加タンクですでに40ポンドになる!「これじゃぁブーン牧場までいったところでワシが積めないじゃない!」というわけで子どもたちは、解決のヒントを探してビデオをもう一度たんねんにみることになる・・・と、こんなことを繰り返しているうちに、子どもたちは何度も単位時間当たりの飛行距離を求めたり、燃料の量と単位量あたりの飛行距離をかけて飛べる距離を計算したり、人や燃料やワシやワシを入れる箱の重さをビデオのあちこちから探してきて荷重を計算したりという作業を繰り返す。しかも、これらの計算をするたびに、「えーと、ビデオの中でラリーはウルトラライトが2分で1マイル飛ぶって言っているから、1時間飛んだとして、60分割る2分かける1マイルって、あらやだ、1時間かかっても30マイルしかいかないの?これじゃ、ブーン牧場まで2時間以上かかるじゃない。で、ヒルダのガソリンスタンドで給油して戻ってくると?ワシはそんなに待たせてだいじょぶかしら?」といった具合に、文脈の中でいちいち計算していることの意味の確認を繰り返す。しかもジャスパー・プロジェクトでは、この辺りの作業を少人数のグループで行うことと、グループで話し合った結果をクラス全体で検討することを奨励しているので、この意味の確認作業が、頭の中だけでなく子どもたち自身の発話を通して行われる。認知科学屋に言わせると、このことは、計算の意味がわかることを促進するはずである。
ビデオの課題が解けた後、ジャスパー・プロジェクトでは、すぐ同じような解き方を何度も繰り返し経験できるよう、応用練習問題がいろいろ用意してある。ウルトラライトのガソリンダンクがもう少し大きかったら、あるいは、燃費がもうちょっと良かったらどうだろう、とか、さらに追い風や向かい風があったらどうなんだろう、といった話題を導入して、計算の意味を少しずつ広げてゆく。応用問題の中には、リンドバーグが大西洋横断に成功した話も出てきて、計算してみるとこの成功にはずいぶんと強い追い風が必要だったことがわかっておもしろかったりする工夫も取り込まれている。
この課題にはさらにもう一つ、発展問題がついている。ビデオの話しの登場人物の一人、実際にウルトラライトを操縦してワシを救いに行くことになったエミリーが、この経験を活かしてウルトラライトを使った宅配稼業を始める。荷物を運んで欲しいという電話が入ったら、そのたびごとに、ウルトラライトの借り賃や燃料にいくらかかって、何時間何分で仕事ができるかを計算しなくてはならない。この計算を素早く、しかも正確にできるようにするにはどうしたらいいか、というのが問題である。距離や荷物の重さがだんだん増えたらその仕事にかかる費用と時間がどう変化するかを全体的に捉えてね、という課題になっているわけで、ここでも子どもたちの発想に従って、表や、グラフや、地図の上に直接どの範囲までなら何ポンドまで運べるかを同心円で描き込むような工夫まで、さまざまな答えが出てくるような活動が奨励されている。
こういう教材を使って授業をすると、授業のかなりの部分を子どもたち自身の活動、それもグループ活動に任せることになる。ジャスパー・シリーズには、ここで紹介したワシを救う話しのほかにあと11話、速度や確率を扱う題材が用意されており、それぞれの課題ビデオと応用課題がDVDなどの形で教室にあるコンピュータから引き出せる(先生たちのために、課題の説明や課題理解に必要な補足資料、授業の準備の仕方の解説、教室で使うプリントなどが入ったDVDも別に用意されている)。こういう教材を使った場合、子どもたちに何ができるようになったのか、評価をどのようにしたらいいものだろう?
アメリカの研究業界では、この手の新しい学習方法の評価は、まずちゃんと成績が上がったかを問題にする。ここ10年ほど、ジャスパーのように、新しい教材とグループでの検討など協調的な活動と、必要に応じて先生方への研修会などをセットにした大掛かりなプロジェクトがかなりの数出てきていて、広く使われるようになったものでは、普通のテストの点数が他のものよりかなり良くなると報告されている(標準テスト的なテストの点数を標準偏差にして2シグマ以上上げたい、というのが研究者たちの一つの夢だろう。中・高の理科を対象に、生徒の得点を平均4倍挙げた、などというプロジェクトもある。)。この、教えたことそのもののテストの点数のほかに最近評価の対象になり始めているものもあって、例えば、こういう学習の仕方をした成果がもっとずっと後になっても「生きる」のか、とか、こういう学習をしたことで、学習の仕方そのものについての生徒自身の考え方はどう変わるのか、ということについての評価が話題になり始めている。
ジャスパーを例に取ると、宅配問題に移った頃、先生が教室でみんなに「こういう問題を解いて、何点くらい取れればいいと思う?」と聞いたところ、「テストなら80点取れれば上等じゃないの?」という子がまだいる反面、「これさ、商売なんだから、間違っちゃいけないんじゃないの?」という子もいて、求められる答えの質への考え方(専門用語だとメタ認知、という)が変わってくるなどの報告がされている。私が好きなエピソードは、ある時、教育困難校と呼ばれる一般に親の経済レベルも低く子どもたちの成績も良くない小学校の生徒が、大学の教育学部を訪問して、自分たちのやったワシを救う課題を大学生がやるのを見学した、という話である。子どもたちは大学生に付き添って、大学生が詰まると控えめにヒントを出したりしていたそうだが、その後小学校に戻って、感想を話し合う機会があった。その時一人の生徒から「大学生は賢い」という意見が出たので、先生が「どうしてそう思ったの?」と聞いたところ、「私たちは、問題がわかってきて、エミリーの体重がわからないと問題が解けないことがわかってからまたビデオを見直しに行ったでしょう?大学生は、見ていたら、どうも最初から大事そうなことをメモしていたの。あれは賢いから、私たちも次からはそうすべきだと思うわ」と答えたそうである。こういう学習スキルそのものの学習をどう正面切って扱うのか、これからの学習実践の大きな課題ではないかと思う。