専門家は初心者のことがわからない
これまでもいろいろ人の考え方のバイアス(かたより) について解説してきたのだが、今回は一旦そういう話しの締めくくりとして、教員が聞くと特に身につまされる話をしたい。心理学のいろいろな研究で、人は、自分が知っていることは他人も知っていると思いこみやすい、といわれている。子どもからおとなまで、このことを示す実にたくさんの研究が報告されているので、いくつか紹介してみよう。
こういう傾向が子どもに見られるのは当たり前、と思われるかもしれない。4歳から5歳くらいのこどもに、「猫のひげは、猫がどのくらい狭いところを通れるか測るのに使われるんだよ」というような、それまで知らなかったようなことを教えてから、「このことを、幼稚園のおともだちはみんな知っているかしら?」などと聞いてみると、自分では話しを聞くまで知らなかったことであっても、「うん、みんな知ってる」と答えたりするという。問題を解き始めたときよりも、解き終わって答えがはっきりしたときのほうが問題をやさしく感じたことはないだろうか?解かずに答えを教えてもらった人と教えてもらわなかった人を比べても、似たような違いが見られる。たとえば、「ミシシッピ川の長さ」を教えた人と、教えなかった人に、他人はどのくらいミシシッピ川の長さを知っていると思うか聞くと、答えを教えられた人はかなりの人が知っているだろうと答える傾向がある。
現実社会では専門家がものごとを判断することが多い。マーケティングの専門家が市場調査をし、デザインの専門家が新製品の最終デザインを決定する。教師は、学生がどのくらいの時間で宿題を済ませ、次のテストでどのくらいできるはずかを予測する。世の中では、こういった専門家の予測が、仕事の納期やテストの難しさを決めている。専門家は、ほんとうにこういった他人についての予測、特に自分とは違う初心者についての予測がうまくできるものなのだろうか?人が、一般に、この資料のはじめに記したような、「知っていることによるバイアス」をうけるものなら、専門家はそれほど初心者の行動がうまく予測できるわけではないと考えられる。
ここでは、専門家が初心者の仕事にかかる時間をどれほどうまく予測できるかについて考えてみよう。認知研究の結果を調べてみると、専門家はむしろ初心者の行動時間をうまく予測できないと考えられる3つの理由がある。
一つ目は、入手容易性ヒューリスティクス(Tversky & Kahneman, 1973)と呼ばれるもので、「人は記憶から取り出しやすい情報をもとにして判断を下しやすい」という傾向があることである。
専門家にとって初心者が今やろうとしていることは、ずっと前に学習したことなので、記憶から取り出しにくく、そのために間違った判断をする。だとすると、初心者と同じようなことをもっと最近やったちょっとだけ先輩といった人のほうが初心者の行動をうまく予測できることになるだろう。専門家が不利になるもう一つの原因は、アンカリング(考えるときの基準の置き方)と調整が不適切にしかおこなわれないという傾向があることである。人は一般に自分自身を判断の基準にしやすいことが知られており、それに従うと専門家も自分を基準に考えやすいので、初心者がすることとはかけはなれた予測を立ててしまうだろう。
専門家はもう一つ、自分のやっていることや経てきた経験を過度に単純化して整理している可能性もある。一般に専門家は知識によって仕事を効率よく済ませることができ、そこに含まれる手続きの一つ一つをすべて意識しながら行う必要がないので、「どうやってやったか」をことばで説明するのが難しい。このような過度の単純化が起きると、初心者が同じ仕事をするのに踏むべき手順の数を過小評価するなどの結果、専門家は初心者が課題を遂行するのにかかる時間をうまく予測できないことになる。
実際専門家が初心者の課題遂行時間をどの程度正確に予測することができるものか、次のような調査・観察を行った。大学が開発に協力している電話メイカーの新製品について、
設計と開発に直接かかわってきた専門家 | 18名 |
同種の製品のセールスと顧客対応を担当する準専門家 | 44名 |
その製品ははじめて触る大学生 | 34名 |
を参加者とした。課題は、新しく開発中の携帯電話の通話録音機能のうち
- 録音されているメッセージを聞く
- その中から指定されたものをセンターに保存する
- 他のメッセージを消す
という作業を対象に、初心者がどのくらいの時間で遂行できるかを推測するというものだった。初心者には、予測の後実際課題をやってもらい、かかった時間を計測した。参加者の予測時間と、この初心者の実際の遂行時間との差が、予測の精度の測度になる。
同時に、しっかり昔を思い出したり、あるいは初心者が陥りやすい問題点を書き出したリストを見せたりすることが専門家の予測をより正確にする助けになるかどうかを調べた。専門家、準専門家、初心者のそれぞれを2グループに分け、1グループには「初めてこの課題をやったときのことを良く思い出して、初心者がかかる時間を予測して下さい」と教示した。もう半数のグループには、初心者が良く遭遇するつまづきや困難点をリストにして表示し、もう一度初心者の遂行時間を予測するよう求めた。
結果は、図のとおりである。左から、初心者、準専門家、専門家の予測時間を示す。それぞれの群の中では、一番左が最初に行った予測、真ん中が自分の初心者のころを思い出して行った予測、右が初心者の困難点のリストを見て行った予測の結果である。
初心者は、これらの課題をほぼ正確にこなすことができたが、全部遂行するのに平均31.5分かかった。その値がグラフの上の横線である。これと比べればわかるように、すべての群で遂行時間は過小評価されている。中でも専門家が一番過小に予測しており、専門家がかならずしも初心者のことが良くわかっているわけではないことを示している。もっとも予測が正確だったのは、セールスの場で初心者とよく付き合っている準専門家だった。この人たちは、最初に予測したときよりも、初心者の困難点のリストを見せられたときにかなり予測を変えており、自分の予測を調整することができることを示している。反対に専門家はこれらの教示にほとんど反応を示さない。「物を知っている」ことが必ずしもいつでも有利に働くわけではないことを一番心に留めておかなければならないのは、この専門家たちなのだ、と考えられよう。
この調査には問題点も多い。同じ人に2度予測を求めているので、準専門家の場合、最初の答えを変えただけで、初心者の困難点リストを見ることによって予測が正確になったのかどうかはこれだけでは決めがたい。専門家についても、そもそもこの人たち自身が初心者だったころからこういう課題をこなすのがうまかったのかも知れず、そうだとしたら「自分が初心者だったころのことを思い出して」も予測は変わらないだろう。この結果が、携帯電話のメッセージ録音以外にどこまで一般的に言えるかについてももっと調べる必要がある。専門家が自分の知識をうまく他人のために使えるようになるために、このような研究が今後もっと必要になるだろう。
出典:P. J. Hinds, (1999) The curse of expertise, J. of Exp. Psych. :Applied, 5, pp.205-221. 抜粋抄訳