学習科学のめざしているもの
この連載では、学習科学と呼ばれる世界的な認知・学習・教育研究の潮流を少しだけご紹介してきた。そこでは、発問型学習と呼ばれるものが安定した人気を得つつある。誰であっても、自分が知りたいと思うことの答えを求める時、真剣に学ぶことができ、結果も将来につながるだろう。そういう意味で、生徒自身の発問を中心に学びを構成すべきだという考え方に基づく学習形態が発問型の学習である。
発問型の学習には、生徒の発問を外から引き起こす誘いが必要である。そのような誘いのことを「駆動質問(Driving Questions)」と呼ぶ。いい駆動質問がどんなものか、特徴をあげてみると、次のようなことになる。
特徴1.「答えが出せる」こと
出る答えは、出し方によっていろいろあってよい (むしろその方が面白い)。
しかしいくら頑張っても答えが出ない問いはよくない。やる気がなくなる。
特徴2.「関心を喚起し持続させることができる」こと
問いが面白いだけではなく、いくつかの学期や、さらには数年にわたって
生徒の関心を引き続けるような問いがよい。
特徴3.「生活や現実世界に根づいている」こと
生徒の問いが生活や現実世界に根づいていると次の問いに発展し易い。しかも学んだことを実行でき、問いを生活に根づかせることができる。
特徴4.「答える価値がある」こと
発問型学習では答えの探究が直接内容やスキルの学習につながる。
だから駆動質問はまず答える価値のある問題でなければならない。
つまり発問型の問いは、答えがわかると次の問いを生む。問いを生むスキルを身につければ、それは学ぶことそのもののスキルを身につける学びにつながるだろうというような発想である。これを全部まとめると、生徒に学習させたいなら、生活に身近なためにどんな生徒でも興味が持て、簡単には答えが出ないがなんとか解ける「大きな」問いを用意して、その答えを元に科学的に探究し続けることができるような環境を作って、生徒も教員も一緒に学び続けよう、ということになる。みんなが互いに刺激しあって、学び続ける学習者コミュニティの一員として成長し続けること、それが世の中全体の知的レベルを上げる学習設計につながるという考え方が根底にある。国際学習科学会(International Society of the Learning Sciences)はまだ小さいが、参加してみるとこういう学びを根底から希求する雰囲気がそこここに感じられる。興味がおありであればwebで検索するなどして様子をみていただければ嬉しい。
少し前の話になってしまうが、2002年の学会の閉会式で繰り広げられた討論を一つ紹介してこの連載を終わりにしたい。閉会式は、数名のパネリストが学会全体を通して考えたことを報告し、フロアと討論する形式だった。まず、数学の問題解決などのテーマで長年認知的な仕事をしてきたグリーノ(Greeno、 J.) が、パスツールを引いて、次のような論を展開した。
これに対して現代は、人々が学ばなければならない、あるいは学びたいと感じる度合いがこれまでになく強まってきて、「社会的動き」として学習への関心が高まっている。このような時代的背景に対して学習科学がなすべきことは、パスツールが公衆衛生問題に対して根本的な解決策を持ち込んだのと同じように、学習の認知的な解明に基づいて根本的な解決策を持ち込むことだと考えられる。』
この提案は大変景気も良くて明快だったので、会に参加していた多くの人がなるほどと感心して、拍手喝采だった。ところが、それに対して、大昔セサミ・ストリートというテレビ番組の作成プロジェクトにも関わっていたベライターという研究者が、次のように反論した。
これに対して、現在の学習問題は、漠然とした解が求められているという意味で確かにパスツールの時代の公衆衛生問題に似ているが、求められている「解」が漠然としたままはっきりしていない。このために十分成熟した「社会的動き」になっていない。一般市民が「学習がうまくいっていない」というとき、その人たちが考えているのは、新聞が読めない、ちゃんとした作文が書けない、計算間違いをする、歴史的な事実を知らない、科学に興味がない、など、自分はできる(と思っている)ことの中に今の若い者にできないことがあることをあげつらう、いわば欠損指摘であることが多い。一般の人々は、学習過程がうまくいった時に人がどれほど賢くなれるものか、学習問題への究極の「解」をまだ知らない。学習科学も、それを十分説得的に一般市民に提供できるほどの実績を積み上げてきていない。
パスツールが打ち立てた細菌学的解決法にあたる「解法」も、学習科学はまだ見つけていない。学習がうまく行っていないなら、「繰り返し練習して基礎学力をつけよう」とか「一年に一回はきちんと標準テストをして、取り残される子どもをなくそう」というような、場当たり的な処方しか提案されていない。学習科学は、根本的に人が自分で学習する力をつけるために何をすればいいのか、世の中がどう変わっても人間が生き延びていけるための学習スキルがどのようなものなのかなど、学習についての究極的な問いに対する答えを提供すべきであり、それによって、「人がここまで学習できるのだ」という、これまでだれも見たこともないような学習の事実を打ち立てるべきである。』
このやり取りに対して、どのようなコメントをもたれるだろうか。私は、この「若さ」に感動した。学習についてそれがどのようなものであるべきかという議論は確かにこれまで何度となく繰り返しなされてきた議論ではある。今、違うことが起きているのか、と問われれば、私としては、これまで試みることが難しかった実践が認知研究の成果を利用して現実に影響をもちえる規模で実施可能になりつつあること、テクノロジの活用などによって学習過程の記録が残り分析もできるようになって、学習研究が客観的な科学的考察の対象になりつつあること、などをあげたいと思う。その成果がどれほど「目覚しい成果」を産むものかは、人の学びに関わる仕事をしている私たち自身が私たち自身の努力によって答えを出さなければならない。そのような努力に、研究者として、また学習者として、参加する人が増えることを期待したい。