えるふ第7回 人が話せること

自分の「やりかた」にめぐり合う

難しい問題を解いている時、ほんのさり気ない他人の動作が答えを導き出してくれることもある。ここも良く見ると、結構不思議な人の心の働きが潜んでいる。

ご紹介するのは1931年に報告された心理学実験の話である。この実験に参加すると、図にあるような部屋の中で「天井から2本の紐が下がっています。片方を持って手を伸ばしても、もう一本には届きません。この2本の紐を結びつける方法を考えてください」という問題を出される。床には、椅子やペンチ、電源コード、紙、釘などいろいろなものが置いてある。あなたなら、どんな解を思いつくだろうか?

「椅子に乗ってみたら?2本に手が届くんじゃない?」とか、「電源コードがあるならそれを片方の紐に結び付けて長くすれば良さそう」などの解を思いついて実験者に伝えると、「あぁ、解けましたね、では、他の解き方はないでしょうか?」とたたみかけられてしまう。この「別の解」を思いつくのはかなり難しくて、5分で解ける人は少ないという。

5分ほど経ったところで、実験者がヒントを出す。ヒントといっても、実験者が何気ない振りで部屋の中を歩き回り、偶然そうなったかのように肩で片方の紐を揺らしてみせる。さて、あなたがこの部屋にいて、実験者が動き回っているうちに偶然紐が揺れているのを目にしたとしたら、それはヒントになるだろうか?何か、答えを思いつきましたか?
(まだ答えが出ていない方、どうぞ1分ほどで良いですから考えてみてください。)

実際には、このヒントが出された後、ほとんどの人が、1分以内にこの問題を解くことができた、と報告されている。どんな解き方をしたかというと、片方の紐を大きく揺らしておいて、もう一方の紐の端を持って立っており、揺らした方の紐が揺れてこちらに寄ってきたところを捕まえればよい。紐が大きく安定して揺れるように、揺らしたい紐にペンチを錘として結びつけるなどする人が多かった。あなたの答えと同じだったろうか?

さて、奇妙なのはこの後で、人は、このような解き方をしたことそのものを「説明できない」という。上のような解き方をした人に、「どうやって答えを見つけましたか」と聞いても、「答えはそれしかありませんからね」とか「ぱっと思いついたんです」などの答えが普通で、紐が揺れたことには言及しない。中には「なぜかターザンが川を渡っているところを想像したら突然答えがひらめいたのです」と答えた人すらいたらしいのだが、「紐が揺れるのをみて揺らせばいいんだとわかりました」とか「あなたが、ほら、紐をゆらしたじゃないですか、あれを見て紐を揺らす方法を考えればいいんだと思ったんですよ」など、実験者の仕掛けたヒントを<正確に>指摘できる人はほとんどいなかった。

どうしてこんなことになっているのか、よくわからないところもあるのだが、こういうことが考えられる。人はものごとを判断したり、問題を解いたりしているとき、たくさんの知識を使ってさまざまなことを同時にやっているので、その途中のプロセスをうまく意識することができない。従って、「どうやってやったのか」とその途中経緯を聞かれても、ほんとうに自分が辿った過程の逐一を順序だてて語ることができない。じゃぁ、なんで突然ターザンを思いついたなんていう説明が(あたかも本当に思いついたかのように)出てくるのか、というと、これがちょっと面倒な話なのだが、人はみな「人間とはこういうふうに考えたり問題を解いたりするものなのではないか」という典型例、モデルのようなものを持っていて、それを答えることならできる、ということらしい。ターザンの例を持ち出した人は、心理学者だったのだそうで、この人はどこかで「人間は類推によって問題を解く」というモデルを持っていたのだろう。

考えてみると、この途中経過がうまく話せないという事態はあまりよろこばしいことではない。難しい問題を解けた人に「どうやって解いたの?」と聞いてもほんとうのことは教えてもらえませんよということなのだとすると、人から解き方を聞いて学ぶということがうまくできない。あるいは、自分で今解いたやり方を振り返ってみてもっとうまく解ける方法を考えることもやりにくい。けれど、実はこの困った事態を解消する簡単な方法がある。2,3人で相談しながら問題を解くと、解いている途中で自分たちの考えていることをそれぞれ話したくなるものである。その時々の途中経過が報告できる。こうやっていろいろ話し合った会話などを記録に取っておくと、そこには「問題を解く途中で考えたさまざまな視点」や「途中でどれくらい回り道をしたか」など、経緯が見えてくる。その経緯そのものを吟味して、問題の解き方のエッセンスを抜き出すということもできる。人が2人、3人と集まってわいわい同じ問題を考えるのは、うまい仲間がいれば楽しいものだが、こういう「協調過程の楽しさ」は案外、他では知ることのできにくい自分自身のもののやりかたに触れることができるからかもしれない。