仕立屋さんの計算
4月号では、最近学習のことを根本から考え直す「学習科学」という新しい研究分野がありますよ、という紹介をした。学習研究なら紀元前からあるだろう?と不思議に思われるかもしれないが、人が、人による、学びの過程で、ほんとうには何が起きているのかをまじめに研究する必要がある、と考えられるようになったのは、ごく最近のことだと思う。
1970年前後、人の考え方は文化によってどれほど違うかなど、現実的で複雑なテーマを取り上げる研究が盛んになってきた。例えばコール(Cole,M.)という研究者は、アメリカ合衆国が西アフリカなど開発途上国に建てた学校の教育が本当に有効なのかを現地で調査しているうちに、その後の認知研究の流れを変えるような研究をすることになった。コールが調査していた地域では、アメリカで開発された知能テストをそのままやらせてみると、成人でもアメリカの小学生と同じくらいの成績しか取れないことがわかった。しかも、学校に行っているかいないかで、それほど目覚しい違いがみられるわけでもない。この結果だけ見ると、「西アフリカに学校を作っても(もともと知的レベルが低いから、と理由を説明するかしないかは別としても)意味がない」、ということになりかねない。
ところがコールは、この「研究」を続けているうちに、あることに気付いた。テストの場を離れると、同じ人たちがコールも簡単には勝てないゲームを楽しんだり、コールらを引っ掛けてビールをおごらせようとしたり、十分「知的」に振舞っているのである。不思議に思ったコールと仲間たちは、テストの道具を作り変えたり実験のやり方を工夫したりして、その土地の人たちが実際にはどんなことができるのか、その人たちの賢さがどこにあるのかを探ろうとした。その結果コールらの実験からは、その人たちが学校に行っていなくても十分知的であることを示す証拠がたくさん見つかることになった。
同じような問題意識を持っていたレイヴ(Lave, J.)という別の文化人類学者は、職人が職場で使う計算の仕方と学校で習った計算の仕方とを比較検討したり、普通の人がスーパーマーケットで買い物をする時や台所で料理をする時に使う計算の仕方を仔細に観察したりした(Lave, 1988)。彼女が見つけたのも、同じ計算といっても「学校でやる計算」と「店でやる計算」とは、違うものなのかもしれない、ということだった。もしもこの二つが「根は同じ」ものであるなら、学校に長く通ってから仕立屋に徒弟に入った職人は、最初から「仕立屋で必要な計算」がうまくても良さそうなものである。あるいは、学校にいったことはなくても小さいときから仕立屋で十分修行を積んで、仕事で使う計算は得意な仕立屋がいたとしたら、その人に、学校でよくやるような計算問題をやってもらっても十分解けてよいはずである。調べてみると、しかし、そういうことはなくて、ある仕立屋が学校に長く行っていたからといって、仕立業での計算もうまいとは限らなかった。
職場では職場に必要な学習が学校での学習とは無関係にちゃんと起きていて、しかもその学習の成果が学校での学習の成果とは違うものなのだとすると、そもそも職場での学習はどのように起きていてどんな成果があがっているのか,調べてみたくなるだろう。レイヴや彼女の仲間たちは、まさにそういう研究をして、職場は、時として、その場にはいった新人がとてもうまく必要なことを学べるよう、工夫されていることを見出した。
例えば、彼女自身が観察した西アフリカのヴァイ族とゴラ族の仕立屋は、いろいろな年齢の子どもを徒弟として預かって、一人前の仕立屋に育て上げるが、そこにはあるていど決まった「教え方の順序」がある。入りたての徒弟は、たいした仕事は与えられず、その辺の掃除を頼まれたりするだけなので、まわりを観察する余裕がある。観察していると、そのうちに、衣服ができあがるまでの全過程が見えてくるし、また親方、職人、さらに他の徒弟がそれぞれどんな仕事をしているのかが分かってくる。自分がまずどんなことができるようになることが期待されているのか、少し経ったらどんな風になっているはずなのか、将来あんなふうになりたいな、という目標はどのへんになるのか、など、固い言葉で言えば「学習目標とその系譜」が手に入る。
徒弟が作るのは簡単な帽子やズボン下、子どもの普段着などで、しかも最初は手で縫えるところやアイロンかけから始める。ボタンをつけたり袖口をくけたりするということは、まず完成品が全体としてどう見えるか、どんな形をしているかを学ぶことにつながる。それだけではなく、こういう「簡単な」作業は実は、失敗しても、それなりに「修復」がきく。そのうちにミシンで縫うことを学ぶようになると、まずは決まった形に既に切ってある部品を縫い合わせるところからはじめる。そうやって少しずつ縫い合わせられる部品の種類が増えてきた頃には、異なる布切れがどう組み合わせられて最終的に全体として服の形になるのかが分かるようになっている。徒弟は、こういう過程をゆっくり少しずつ次の段階に進みながら、最後にそういう部品を作り出すためにはそもそも布をどう切ったらいいか、つまり裁断を学び、一人ひとりの顧客の体の特性に合わせて高級なスーツを作るための技能を身につけてゆくという。徒弟には、最初から製品の完成に正統的に関わりながら、しかも重大な失敗を最少にするような順序で徐々に活動のレベルを上げてゆく道筋が、まさに職場で生産活動に従事しながら身につけられるよう準備されているのだ、というのがレイヴらの発見だった。
同じような過程は、他の専門家集団でも見られる。この種の研究をまとめてレイヴは、ウェンガー(Wenger, E.)という研究者と一緒に職場での学びについての研究をまとめて、「正統的周辺参加」という考え方を提唱している。この人たちの考え方によれば、何かを学習することは、その何かを日々自分たちの生業として実践している人たちの集まり、言い換えれば「社会的な実践共同体」に参加して、徐々にその参加の度合いを増すことだ、ということになる。普通「学習者」と呼ばれる初心者は、職場とか、バイト先、のような、ある社会的な「実践共同体」に正式に参加を許されているものの、まだ中心的な役割を果たすだけの知識や能力がないので、「周辺的」に参加している人、ということになる。この初心者は参加の度合いが進むにつれて段々完全な参加者(彼らの用語では「十全的参加者」)になり、そのうちなにがしかの一人前になる。職場は、先の仕立屋の例で見たように、経験的にこの「周辺的」な参加を段々深みにはめて、そのうちに従前敵参加者、つまりプロ、にする、そういう仕組みをもっている。だから、そこからは落ちこぼれる人は非常に少ないし、「人はだれでもある世界に十分長くいれば、その世界のプロになる」仕組みが働いている。(ただし、あるいはだからこそ、人はいくつもの世界でどこでもプロになる、というわけにはなかなかいかないものだ、ということもこの考え方は含意するだろう)。
こういう「社会的な実践共同体への参加の過程」としての学習がそれほどうまくいくものならば、学校でもおなじようなことが起きる工夫をすればよいのではないか。レイヴらの研究は、実際学習科学を研究する人たちの間に、こういう考え方を引きおこした。例えば、ブラウンという研究者たちは、学校でも、
- 今何を学んでおけば先に何ができるようになるか、次に何をすればいいかを学習者の目からも見えやすくする
- 学習すべきことを学習者が既に知っていることやできることに結び付ける
- できるかできないかをテストするのではなく、できたらなぜそれでできるのか、それができると次には何ができるはずかを考える習慣をつける
- 一人ではできないことには手助けし、後からはそれを一人でもできるよう導く
などによって、これまでよりも成果があがるはず、と提案している。さらには、
- 少しずつできることのレベルが違う人たちが一緒に何かを作り上げるような場面設定を工夫して、「先生ひとりに生徒がたくさん」という状況ではなく、「生徒がひとりに先生がたくさん」いる状況を作る
ような工夫もしてみたい。これをすべて満足するような授業を作るのは随分難しそうだが、「職場」がやっていることなら不可能ではないかもしれない。徒弟制といった古い学びの見直しが、新しい学びにつながる可能性が見えてくるのも、学習科学という新しい研究分野の醍醐味である。
今回取り上げた内容をちゃんと知りたい、という方は次の本を参照してください。
コールの本:コール&スクリブナー、『文化と思考』、サイエンス社
レイヴの本:レイヴ&ウェンガー、『状況に埋め込まれた学習』、産業図書