「大学教授の94%が自分には平均以上の研究能力があると思っている」という話がある。そうだろうね、と思ったあなたはもしかして大学教授?おかしな話だが、この話はどこか説得力がある。おそらくいろいろな職種の人がみな、自分はその職種で「平均以上」だと思っているのではないか?理由はいろいろありそうだが、一つには、「平均」とは何か、どんな経歴の人で何ができれば平均的なのか、などがはっきりしない割に、人は自分のことは良く知っている(と少なくとも思っている)から、でもあろう。
人がほんとうに自分のことを良く知っているかというと、これが実はそうでもない。住所や名前、年齢、職業学歴など自分にまつわる事実についてはもちろん普通は良く知っているのだけれど、自分の賢さの程度とか、自分が何をどの程度うまく説明できるか、などについての判断は相当あやうい。
例えば、今これを読んでくださっているあなた、ヘリコプターって知っていますか?もちろん?ヘリコプターのことをどの程度説明できると思います?かなりいけますか、ほぉ、では伺いますが、プロペラがあれだけぶんぶんまわったら、機体も当然ぐるぐる回ってしまいそうなもんですけど、なんでヘリコプターの機体は回らないんです?
これをうまく証明できる人はそう多くない。ところが、こう正面切って聞かれないと、人は、これを説明できないということ自体になかなか気付けない。この実験によると、ヘリコプターなどという難しいものだけでなく、ミシンの縫える仕組みや洋服のチャックが閉まる仕組みですらも、アメリカの有名大学の学生に聞いてみると、みんな初めは自分がちゃんと説明できると思い込んでいるのだが、ちょっと突っ込んで聞かれるとすぐ説明できなくなって、自分で自分のできなさに驚くのだそうである。人はみな、「私、説明できます幻想」とでも呼べそうな幻想を持っているらしい。
この幻想、かわいらしくていいじゃないか、世の中どんどん技術が開発されるのだから、そんなものの仕組みなぞわかっていなければならないものでなし、ということで済ませたくもなるが、これが人の認知過程の持つもう一つ別の特徴と絡んでくると少しやっかいなことになる。人は、自分がある程度ものの説明ができると思っているだけでなく、自分がわかっている(と思っている)ことは、他人もわかると思いがち、つまり自己中心性が強い。自己中心性といってもこれは、普通のおとなにも見られる傾向で、例えば新技術を開発している人でも同じである。技術開発をしている人が「自分たちにはこの機械をどう使えば使いこなせるかわかっている」から、技術開発なんぞはしないお客さん、一般ユーザの方たち、ひいては初心者さんでも、「そのくらいのことはわかるだろう」と思ってしまいがちなのだ。これもちゃんと実証した実験があって、こういう開発者の人たちに、「でも、初めてこれを使う人はこんな人たちですよ」とかなり丁寧にイメージ喚起しても、「私、わかるんだから、あなたも当然わかるでしょ、ね、わかってよ」と期待することをあきらめないのだそうである。人というものは、話題が「わかる」「わからない」という認知の世界になると、押しなべて、他人のことを知らない。そのこと自体を、もう少し、私たち自身が私たちの常識にできるといいのではないか、と思う。