えるふ第8回 「頭の中のもの」をいったん「頭の外」に出してみる

前回、人は夢中になって問題を解いたりしている時実際にはどんなことを考えながら解いていたのか、後からではうまく思い出すことができない、という話をした。しかし、考えている最中に、その時その時で考えていることを少しずつ話してみようとすると、少しはそのプロセスを追うこともできる。この「頭の中で考えていることを外に出す」という活動は、私たちのものの考え方、賢さにとってどんな影響を持っているのだろう?

例によってひとつ、実験をご紹介しよう。図1を15秒ほど、「あとから頭の中で鮮明にイメージできるように」よく見て、手で隠してください。さらに、目をつぶって、今見た絵を、できるだけ詳しく思い出してください。さて、この「思い出している頭の中の絵」は、何に見えるでしょうか?時間があればちょっとほんとうにやってみると・・・どうですか、何に見えるでしょう?

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実はこの実験はこれだけでは終わらない。参加してくれた人が「○○に見える」というと、「では、次の質問なのですが、その今○○に見えているイメージを、他のものに見立て直すことはできないでしょうか?何か他のものにも見えませんか?」と聞かれる。今まださっきのイメージが頭の中に鮮明に残っているという方、もう一度目をつぶってそのイメージを「見立て直して」みていただきたい。別のものに見えるだろうか?

図1を見た人がこれを何に見立てるかというと、「あひる」か「うさぎ」というのが普通の回答である。左上の二つの長い突起を「くちばし」と見ると「あひる」に、「耳」と見ると「うさぎ」に見える。心理学の教科書などに出てくることもあるので、「知っていたよ」という方も多いかもしれない。で、上の実験結果はどうなったかというと、曖昧図形というものを見たことがない大学生20名ほどを相手にこれをやってみたところ、

  • 全員が、なにか一つ(「あひる」か「うさぎ」かどちらか)に見立てることはできる
  • しかし、いったん頭の中で一つのものに見立ててしまうと、誰も、別のものに見立て直すことができない

という。つまり頭の中のイメージは一つの視点からしか見立てられないということらしいのだが、この実験、さらに続きがあって、

  • 「あひる(かうさぎのどちらか)にしか見えません」といっている本人に紙と鉛筆を渡して、イメージしているものを描くように頼むと、全員が、描いたものを見て「あ、これは△△(「あひる」に見えるといっていた人であれば「うさぎ」、「うさぎ」に見えるといっていた人であれば「あひる」)にも見えますね」とこともなげに言う

のだそうである。頭の中に持っているイメージをいったん外に出すと、それが自分のイメージを元に描いたものであってさえ、あたかもモノのように、新たに見立て直すことができるというのだ。

この外化の効果が何にでも当てはまるのだとすると、かなりオドロキで、まさに「人は自分の頭の中だけで考えていたら絶対発展性がないわよ!」と叫びたくもなるのだが、この結果がどこまで一般化できるかについてはいろいろ議論がある。でも当面私たちにとってこのことは「そういうこともあるかもしれない」程度にでも「知っておくとお得」な情報ではあるだろう。行き詰まったら、「頭の中で一つの見方しかできなくなっている」だけのことなのかもしれないのだ。せっせと考えを図にして紙に描いてみたり、文章にしてみたり、すでに頭の中できれいな文章になっていたのなら他の言語に翻訳してみたりすると、「もう一つ別の見立てができるようになる」かもしれないのだ。これは、まぁ、お手軽なので、ぜひ試してみるべきだろう。

この、イメージを図にして紙に描いたり、文章にしてみたり、というのは典型的な外化だが、人は日常的にはもっとずっと自然に、ある意味それと気付かずに、自分の「思考過程」を外化している。会議で配られた資料にいろいろ書き込んだメモや、耳が折ってあるページなどの外化物は、もっと積極的に使うべきなのかもしれない。部内で共有している厚手のマニュアルの良く使うページを開いた時、背表紙を折り返したりページ全体を押し付けたりしてそのページが開きやすくするといった動作でさえ、いってみれば外化である。アメリカの、開発チームの人の移動が激しい現場で聞いた話だが、開発途中からチームに加わる時、そのチームがみんなで使っているマニュアルのどのページが開きやすいかを調べると、これまでの仕事の傾向が分かるものなのだそうである。世の中がIT化したらこういう小技が利きにくくなったというのでは逆行だろう。IT化にも「人が人を賢くしている」方策をうまく生かしてゆきたいものである。