えるふ第6回 作り出される記憶

いろいろなことをよく覚えている人は「賢い」ということになっている。そのせいもあってか、人は自分の知っていることを過大評価しがちである、という話を前回したのだが、ではそもそも私たちはどのくらい昔のことまでちゃんと覚えているものだろう?小さかったときの家族旅行とか、どこか静かな部屋でおばあさんと過ごした一瞬とか、いろいろ思い出せるものだけれど、もし「あなたの幼少時の記憶を作ってあげましょうか?」という人が現れたとしたら、どうだろう?

実は人はかなり積極的に自分の記憶を思い出す時点で「作っている」。同じ文章を読んでも、違う先入観念を持っていると当然違った読み方をするので、後から聞いてみると覚えていることも違う。それなら、この先入観を後から操作して、経験しなかったことについての記憶を「作る」こともできるのではないかと主張する人たちがいる。どういうことか、具体例で説明しよう。

今、二台の車が互いに、まぁ、何と言うか、物理的な現象としては互いに軽く触れる映像を見せられたと考えていただきたい。これを見た人たちを2群に分けて、片方の人たちには、

「二台の車が互いに接触したとき、それぞれの車のスピードはどれくらいでしたか?」

と聞く。もう一つの群の人たちには、

「二台の車が互いに激突したとき、それぞれの車のスピードはどれくらいでしたか?」

と聞く。

「え?同じことを聞くの?」と思った方、もう一度上の二つの文を良く読んでみて下さい。違うのですよ。違うところは、接触した、と言うか、激突した、と言うか、それだけなのだが、これでそれぞれの群の答えが変わってきてしまう。「接触した」と聞いた人たちが答えるスピードの平均が時速で12.8キロ位なのに対して、「激突した」と聞いた人たちの答える時速は平均して

16.7キロ位にまで上がってしまう。人は、こんなふうに、自分が見たものを「思い出して」いるつもりでも、手がかりになることばがあったり、思い出す特定の目的があったりすると、そういった手がかりや目的に合わせてその場で思い出をずいぶんたくさん「作り出して」いるらしい。

人の記憶がこんな風なものなら、「あなたは小さいとき、こんなことをしたのですよ」と何度も聞かされているうちに、ほんとうに自分でもその気になってしまうことさえあってもよさそうである。実際これを実験してみた人がいる。

ある人の親などから過去の経歴を大体聞いて、「5歳の時にデパートで迷子になったことはまず絶対<ない>」ことを確かめておく。その上で、本人に、小さい頃のことを思い出してほしいという実験に参加してもらって、「あなたは5歳くらいの時に、デパートで迷子になって、家族がみんなで心配したということがあった」と書いてある小冊子を読んでもらうなどする。迷子になった記憶について聞かれると、最初はもちろん「え、そんなことないですよ」と言っているのだが、これを数回繰り返していると、そのうちに、「あの、先週、迷子になったことはないと言ったのですが、よく考えていたら思い出しました」などと言うようになり、場合によってはそのときの様子を、「親切な店員さんがいて守衛室まで連れて行って遊んでもらったので、僕は結構楽しく待っていたんですが、親はそれこそ青くなってデパート中探し回ったって聞かされました」など、積極的に自分の記憶について「語って」くれるようになる人もいる、という。こうやって本人が「自発的に」「思い出した」話について、思い出した本人が感じる信頼度はかなり高いのが普通なのだそうである。

この一連の研究は、もちろんそんなの基本的に間違っているに違いない、と考える研究者もいるわけで、「偽りの記憶」という名前でたくさんの研究がなされた。最近では被虐待児の告白がセラピストによって「作られた」ものでないかどうかをどうやって判定するか、など深刻な社会的課題にもなっている。この話を、これまでこのコラムで紹介してきた人の賢さについての話のラインに乗せて考えてみるとしかし、これはこれで納得できる側面があるだろう。これらの研究は、人がいかにその場その場で一生懸命、自分の知っていることと目前にある状況とを摺り合わせて、積極的に理解しようとしているものかを示しているとも考えられるからだ。人は過去に経験したことに縛られるだけではない。過去に経験したことを、今必要なことに適用すべく、さまざまな知識づくりや知識の作り変えをやっているのだろう。他人の一言で記憶が変わってしまうと思えば空恐ろしいが、考えに詰まっている時、積極的に他人と話し合ってみたり、場を変えてみたりすることで、人はいつでも「新し」くて「もっといい」考えにたどり着く可能性も持っている。