えるふ第1回 知っていることを「読む」
人は、賢い生き物である。その賢さの仕組みを解明し、人がいまよりもっと賢く振舞うためにはどんな支援ができるのかを研究している学問に、「認知科学」と呼ばれる学問がある。このコラムではこれから10回にわたって、この認知科学のトピックスを紹介する。
わたしたちはずいぶんいろんなことを「知っている」。あまりにもたくさんのことを知っているので、「ひとつひとつ言ってみて下さい」といわれても、驚いたことに、そもそも何を言ったらいいのかすらわからないだろう。
図1
図1を見てください。何が書いてあるでしょう?「THE CAT」? そうですね、よくできました。え?そうは読めない?あなた、英語を習い始めたばっかりですか?
図2
英語を数年やってきた人だと普通図1を「THE CAT」と「読む」。ところが、図1にある6つの文字をよく見てもらうと、図2に示すように、それぞれの単語の真ん中の文字は同じ形をしていて、それだけ取り出すとどちらがHでどちらがAなのかはわからない。けれど、図1を見直してみれば、やっぱり「THE CAT」としか読めない。
どうして私たちは図1をTHE CATと読めてしまうのだろう。その理由は、私たちがいろいろ既に知っていることを使って期待をもって「読む」からだと考えられる。私たちは、英語の文字や単語を知っているだけでなく、「名詞の前には冠詞が来る」というようなことまで知っていて、そういう知識を総動員して読んでいる。つまり、読むという行為は、紙の上のインクの陰影から縦線や横線のパタンを見分けて文字として認識し、それらを組み合わせて単語として認識し、単語の組合せとして語句として理解する」というようなボトムアップな処理<だけ>から成り立っているのではなくて、もっとぱっと見た印象から断片的に知っていることを呼び出して「こう読むのだろう」という期待を作り、その期待通りに「読めるかどうか」を確かめに行っているというようなインタラクティブなものなのだ、と考えられる。図1の例では、TやE、またCやAが、図2にあるHとAの中間のような出来損ないの字を両側から支える「文脈」として働いて期待を作り、このインタラクティブな読みを引き起こしている。図3にも似たような例をあげてみた。ご自分でも作ってご覧になると楽しいかもしれない。
図3
期待を作って読み進められると、「先読み」できるようになるので、読むのが速くなる。こういう仕組みは、人が文を読むときにも働いている。次の文章を読んでみてください。
ジョンとマリーは、小さな窓口に向かって歩いていった。 まだそれほど混んではおらず、真ん中よりちょっと前の良い席を買うことができた。 ジョンが切符の代金を払ったので、マリーは二人分のポップコーンを買った。 |
さて、ジョンとマリーは、何歳くらいでしょう?二人はどんな関係で、どこに行ったのでしょう?律儀な人は慎重に構えて「そんなこと、書いてないから答えられない」というかもしれないが、たいていの人は、ジョンとマリーが高校生か大学生くらいで、二人で映画を見に行ったのだろうと解釈してしまう。大体そう考えておいて、後から別の情報が付け加わったら、それはその時解釈しなおせばよい。例えばこのあとに
その夜遅くなってから、マリーはジョンに小さな声で、「20年前とは随分印象が違った わ」とささやいた。 |
というような文が出てくれば、彼らの年齢は大急ぎで4,50代にまで引き上げられるだろう。ついでに彼らは、それほど裕福ではなく、一度は結婚して一緒に住んだこともあるがいまはまた別々に暮らしているのかもしれない、などの解釈もそれほど不自然ではないだろう。実はまだ、彼らが「映画を見に行った」という確証になるような「文字面」は出てきていない。けれど、このような文を読んでもらった人にしばらくたってから
「先ほど読んでもらった文章の中に ジョンとマリーは、二人で映画を見に行った という文があったでしょうか?」 |
と聞いてみると、あったのかなかったのかはっきりとは判断できない。人がものを「読む」という行為は、こんなふうに人がすでに知っている知識を使って、入ってくる情報と知っていることを組み合わせて「わかり方」を構成してゆく積極的な過程である。だからこそ、良く内容がわかっている事柄について書かれたものであれば私たちは相当な速さで「読み飛ばす」ことができるし、それでも「的を外さない」でいられることもある。同時にこういう「賢さ」を支えているインタラクティブな仕組みがあるからこそ私たちは、「自分が思ったとおりのことが書いてある」あるいは「書いてあった」と思い込んでしまうこともある。人の賢さの仕組みを知ることは、その賢さの仕組みに足をとられずに上手に使いこなすための「知恵の知恵」を手に入れることでもある。