(1) ご紹介ありがとうございました、三宅なほみでございます。 90分という長い時間をいただきまして、「協調から共創へ」認知科学課ら学びを考え直す。というお話をさせていただこうと思って来たのですが、今いろんな意味で学びを考え直す時期に来ているんだと思います。自分自身がどうやって学んでいるんだろうとか、例えばこの講演の場そのものがどういった学びであり得るんだろう。たくさんの方に来ていただいても、たぶん90分間というのを、いちばん典型的に伝統的に使わせていただくと、私の方が一方的にお話をさせていただくことになります。それを聞いていただくことになると思うのですが、先ほど佐伯先生の紹介の中で、外化ということを私の仕事と結びつけて出していただいたのですけども、外化することがひとつの学びの要素だとすると、この場面の中で外化をするのは主に私になってしまうんですね。それでだいじょうぶなのだろうか、と考えながらお引き受けした講演というのをどのようにやるんだろう、といったことも考え直してみますと講演ひとつお引き受けするにしてもすごく難しいということになりますが、少しご協力もいただいて私たちの暗中模索におつきあいいただけたらいいかなということも思いながら、少し用意もして参りました。よろしくお願いいたします。 (2) 教育改革のスローガンというのがいろいろ言われていますが、ネットワーク化、デジタル化という話があります。技術先行と言うことがあります。そこから協調学習への移行というのがけっこう声高かに言われる面があって、協調学習というのはそもそも何なんだろう。という思いも私たちの中にあると思います。 もう1つよく聞く話が、教師が何かわかっていて教える、のではなくて生徒が何かプロジェクトをやっていく中で学んでいくんだ。というプロジェクト型の学習への移行という話があります。こういった物がどういった物なのか。それを考えるために私たちが今どんな知識を持っているのかと言ったことを考えながらいってみたいと思います。 (3) たぶん非常に砕いた形で言い換えてみますと、協調学習への移行ということは他人のやり方から、学べるのだ。というところにひとつ視点を置いてみよう。そうするといつでもどこでも学ぶことができる。特にこれはインターネットなんかがあるから、ということですけども、ということがひとつある。そうすると教室である決まった時間にある教えというのを形式的に起きる場所だけで学びが起きるのではなくて、いつでもどこでも他の人やり方を参考にしながら学べるのだ。それを前提に学びということを考え直してみよう。 と同時に自分が知っていることというのは必ずあって、それを知りたいという人がいる関係は私たちが日常的に遭遇するわけですけど、それは子供でも同じである。そうすると他人に教えることで自分自身が学んでいく。そういう心の働き、今まで学びの場で特に大きく取り上げられていない。話題にはなってきたと思うんですけども、これで基本的に学びが動いていくんだ、という見方はされていなかった。その辺りにもう少し光を当ててみよう、ということかもしれません。 それからプロジェクト型への移行ということで言われていることは、何か自分(生徒)達は自分がわかって自分が動くのではないと話が終わらない、という状況の中で、確かに科学的な発見がなされたり、私たちも新しい工夫をするわけですけども、そういう状況というのを学びの場にもこしらえて学ばなくてはならない場面というのを作ってそこで学生に学んでもらうということを考えたらいいのではないか。それが今プロジェクト型と言われている話のベースにあると思います。そうするとプロジェクトというのは学校の中で、受験というのもリアルはリアルですけども、もっと実社会で自分たちがこの川をきれいにすることに意味があると思えるプロジェクトが作れて、その中で、じゃあどうしたらこの環境をきれいにすることができるかな、というような話になってくると、動かなくては話が終わらない中で学ぶ。 これはそこで学んだことをそのあとどうやって知識を使っていくのかという転移の問題も考えたときにこういうやり方の方が、うまくいきそうなんだという話なんだろうと思います。 ネットワーク化、デジタル化と言われていることは、基本的にはこういった学びの考え方の変化に対して、考え方が変化するだけでは実行が付いていきませんので、協調学習なりプロジェクト型の学習をやりやすくするための道具として技術が期待されていると考えられるのではないかと思います。 (4) プロジェクト型の学習が大事だ、という話になってきますと、先ほどの一番最初の話に戻るんですけども、ここで私が話をさせていただく、この場というのを今言ったような協調学習が大事だとか、プロジェクト型が大事という考え方からという考え方からある意味本気で私と聞いてくださっているみなさんとの学びの場にしたいとしたら、たぶん私が話をしていてはダメなわけで、ここでプロジェクトをやる必要があるだろうということになってきます。その中で協調学習活動を取り入れてみる。でも学習というのは評価がつきものでして、この私自身の話を私も評価し直す、参加してくださるみなさんも評価してくださる。そういった形で進めていくことが正しそうな気がします。 そういったことをやろうとしたときに何ができるかということなんですけども、この講演をこの場だけでどうやったらプロジェクトにできるか、いっしょに仕事をしている学生達と相談して考えてみたのが、こういうアイディアなんですが、今お手元に入り口のところに何枚か配っていた物があると思うんですけども、そのうちの2枚がこれからの私の話に関係している部分でして、 (5) プロジェクトとしてはこういうことを考えていました。ここにいるのは教育者の方、もしくは教育に深く関わっている方ですので、ご自身の学びのやり方を変えることを少し考えていただくとというようなプロジェクトです。 <中略> (別紙) ここで考えているプロジェクトはこのような物です。 1番として、あなたが教えていらっしゃる、または教えたいと思っている教科、学年。小学校1年生の音楽とか、大学3年生のヒューマンインターフェース論とか何でもよろしいんですけども、ひとつ思い浮かべてください。そこで、教え方であなたが最も気に入っている工夫、もっとこういった工夫がされているといいよなと思っていることでも、想像しているのもでもけっこうなんですけども、そういう授業がうまくいくために、今手持ちではどういったことをなさっているでしょうか。それがある意味みなさんの生活体験、みなさんがここにもってきてくださった既有知識を基に話を進めようという一番最初のところです。教育にはそれほど近くないんだよな、といった方がいらっしゃったら今まで教育を受けてきた経験の中で、あるいは企業の中でもけっこうですけども、こういうことがいいと思っていることをここにあげていただけたらと思います。 随時このための時間をここでは取りませんので、流れで話を聞きながら少しずつ埋めていただけたらと思いますけども、その今、気に入っている授業の中で、ちょっとこの辺、表現だいぶ苦労したので、ちょっとカチンとくる方いるのかもしれないんですけども、言葉はボキャ貧のせいだとお許し下さい。 トップ10%の学生の活動というのをイメージしてみてください。自分が一生懸命努力して1つの授業をやった。トップ1割の生徒がこういうように動いてくれた、あるいは、動いてくれそうだった。あれはいいよな。そういう教えたい活動がある。学生達がここまでやってくれた。生徒達がこのように動いてくれた。そこに先生達が思っていらっしゃる学びが確かにあった、という活動。学生、生徒にどんな活動が見られたら授業がうまくいったなとお思いでしょうか。ここもみなさんの既有知識頼りのところです。 それに対して、これからお話をさせていただくようなことが、うまくヒントになればなんですが、やっていただきたいプロジェクトの本体のところは、トップ10%の生徒ではない学生。これも苦労して、その他大勢という表現をしていますけども、その他大勢の学生から、トップ10%の生徒と同じレベルの話を引き出すためにはどんな工夫が可能なんだろうか。私たちが教師としてやりたいのはこんなことではないかと思っていますので、それをこのように表現してみました。 (6) ここでやっていただきたい協調活動としては、この話を聞いてコメントしたり質問したりしていただいて、後半の方に比較的多めに質疑の時間を取らせていただこうと思っています。このプロジェクト案についても話を聞きながら書いていただいて、お隣同士で比較検討していただけたらと思いますが、そのレベルまでが紙の媒体でできることの限界です。 (7) ある程度話がうまく進めばこのプロジェクトが成功です。3番目の工夫のところに何かアイディアをわかせていただくためのヒントになるだろうか。全然ならなかったら聞いていただいた時間はもったいなかったですね。申し訳ありませんでした。ということになるんですが、こういう類の講演の評価というのもあまりやったことないのかもしれない。評価無しで世の中には講演という物が山ほどなされていて、講演料という物もこういうところでいただいたりするんですが、そういう物とこういう物はどういった関係があるのかな、とちょっとよけいな話ですが、こういった話もまじめに考えなければいけないだろうとは思っています。 (8) このプロセスの評価なんですが、最後に点数をつけていただきたいと思っているわけではありません。教示側としては私です。学習側というのは今は聞いていただいているみなさんの側です。その双方向がお互いに次のステップに進むために形成的に、建設的に利用できるような評価というものが大事だと思います。形成的な評価と建設的な評価というのが評価の中にはあって、という話が教育心理学の教科書には書いてありますけども、基本的には総括的な評価であってもその次はどうするのという、私はぜんぶ形成的な評価でとれると思っていますし、その形成的な物をプロセスを流しながらやりたい。その1つとして例えばテクノロジーが使えると思っています。 (9) このテクノロジーというのは大学の中でも使ってるテクノロジーなんですが、私たちが勝手にInteractive Query Raiserという名前を付けていまして、ノートパソコンをお持ちの方がいましたら、このURLへアクセスしてみてください。そこにこの講演の原稿がでています。 (10) これは実際に授業で使った物ですけども、授業が終わったあとに先生が話すつもりだったこと、いわゆる講義ノートが行単位に切られてでてきます。その行番号をクリックするとコメントが書けるようになっていて、コメントをつけると鉛筆マークがでてきて、コメントが付いていることがわかります。その鉛筆をクリックするとそのコメントの下にどんどんコメントを書けるようになっていて、鉛筆の横にレスポンスが付くとその数だけ鉛筆が並んでいくようになって、話を聞きながらコメントしてくださる方がいらっしゃったらあとで質疑の時に、それも使うことができるかなと思っています。 (11) こういうようなこと、これをモックで紙でお配りしたのは、余白のところに思いついたらコメント書いていただいても基本的には同じことができてしまう。やりやすいのはインターフェース的に紙の方がやりやすいのですが、紙があればみなさんと私で1本の線の協調というのができる。しかし今のようにこのようなIQ Raiserを例えば講義の後に準備をしておいて、そこに学生達が授業が終わってから、やるときには1人1人ですけども質問をして、それを見て私たちが返事をしたり。お互いに学生同士の間で、先ほどのようなコメントにレスが付くようなやりとりがあったりすると何が起きるかというと、実際にそこで起きている質疑応答なりコメントなり、時間がずれた議論をみんなで共有することができるようになります。いつでもどこでもコメントして議論する、インタラクションが起きると何かいいことがあるのかみんなが検討する材料ができることになります。 去年1年生の後期の授業で認知科学の入門のような授業で裏で誰がいつ、どこでというようなことを全部ログを取ってログを分析するというようなことをしていましたところ、約1割の学生はこのIQ Raiserをずっと使い続けてくれました。でもこの相互作業が起きて初めて自分が質問して先生が答えるだけではなくて、自分が横目で見ているとすごくつまらない質問をする生徒はいるんだけど、それに先生がうまいことそれをねじ伏せるような返事を返して、そこからまた議論が広がったりというような経緯が見えますので、やりとりの中で学べるのかなということの確認がクラス全体で起きてきます。作っておいただけでは仕方がないので、実際に授業の中で勧誘する。ちょっとはやく授業が終わったときにコンピュータが使える部屋へみんなで移っていって今だけは使ってみようよということもやりますが、そうするとそこで利用というのは大きく増えます。だけれどもそういったことを何回も挟んでいくと、半期のうちにじわじわと、最初はこんな物に興味がなかった学生さんが後の方になってくると少しずつ入ってくるといったことがあって、こういった試みを半期のひとつの授業の中だけでやるのではなくて、少しずつつないでいく。1年生の後期で使ったら2年生でもう少し高度な使い方をする。というようなことをやりながら今私たちの学部の中では協調的な学習の文化そのものを作っていくことができるのではないか、と考えています。 実際には講義の後で思いついたことを質問できるという良さがあるので、この場でPHSで拾っていただくというのは、ほとんどデモという感じになりますので、確認していただくという方が大きいのかも知れません。試験的に運用で実は学外に出すのは初めてでして、今のURLとログインパスワードで2週間(2000.9.10)あけておきますので、もう少し遣いやすい機械が手元にあるときにのぞいていただいてコメントいただければ、それにレスポンスを返したりすることができればいいかと思っています。 (12)は飛ばしてしまっていいでしょう (13) インターネットで教育をどう変えるかという話ですが、その中で教育の話ですので、教えてどうなるという目標と、どうやって教えるのかという活動と、どうなったかをどうやって評価するのかということの3つどもえで、全部変わっていかなくてはいけないんだろうと思っています。 (14) その目標というのは確かに変わってきていると思います。指導要領のレベルから、例えば先生達が研究事業をなさるときに、どういった目標を立ててやるのかということ自体が変わってきています。目標設定そのものが変わってきているのかも知れないんですけども、先ほど目標と活動と評価と、もっとあるのかも知れませんけども、3つどもえで変わっていかないと変わったことにならないんだよね、という辺りに目標の話がいちばん大きく生きてきているところかも知れません。 生きる力を育てるという言葉がありますが、やっぱり最近、先生達の間でそういうことが言われるようになっているんだ、ことぐらいは聞こえるようになっています。目標としては非常に正しいのかも知れませんが、どうなったら生きる力が付いたのかと言うことを調べながらやることはとても大変です。こういった目標の立て方というのはかえって仕事を難しくしているということはないのかと言った気もします。 昨日偶然、現場の先生方がネットワークを使って情報教育をする、という実践のお話を4〜5件うかがう機会があったのですが、そういった中でも自分の研究事業の目標として、他人の意見を聞いて考えを深める。私たち認知屋では、こういったことが授業の中で起きれば、さっきのトップ10%ではないのですけども、こういうことが私が教えている授業の中で起きればバンザイだよな、という活動ではあるのですが、これ自身は非常に評価しにくいです。こういった抽象的すぎる目標はいいけども、やっぱりスローガンとして道を間違えないように、どっちへ行きたいのか、ベクトルの方向を決めるのにはいいけども、実際にこの半期の授業の中でここまでやりたい、というようなことを考える時にはもっと具体的に教えたいことを特定するような、目標設定をする努力も必要ではないかと思います。 (15) それを成し遂げるための活動の変化。ここで、1人からたくさんへというような話がよく出てくるのですが、たくさんにするというのはどういったことなのか。 これも多人数が関係してくるだけでずいぶんいろんな物が変わってきます。まだ自信を持ってお話しできるほどデータがそろっているわけではないのですが、 (16) 例えば「分数ができない大学生」という本が出まして、ちょっと大変かと思っていたら、しばらくして「少数ができない大学生」という本が出て、どうやらこれが社会問題になっているらしい。 こういったことがあると興味があるので、うちの学生さん達を捕まえてやってもらったりしましたが、その中で学生達といっしょに話をしてきて、やっぱりこれは難しい話かも知れない。先ほどのこれと併せてなんですけども、というのは1回やってみるとうちの大学は中堅どころなのであまり成績がよくないです。心理学で何がわかっているか、認知科学で何がわかっているのかというと、同じ作業を2回続けてやると成績がよくなります。もう一つ、こちらの方が証拠としては不十分ですが、1人でやるよりも2〜3人でやった方が成績がよいです。 そうすると先ほどの分数ができない大学生の話は、一応パラッと見ただけですけども、全部大学生が1人で25題の問題を解いています。うちの学生だと25題の問題のうち、いいとこ正解は12題くらいで、あの本で言われている「問題だ」と言われている大学生に当てはまるのですが、その人達に2〜3人で協力していいから2回目をやってもらう。途中で本を見に行ったりするわけではありません。今そこで20分くらいで、25題やってみて12題しか解けない学生を、2〜3人その場で寄り集まってもらって、もう一回やってもらう。そうすると私のところで何グループかやってもらって、21.3 題くらいまで成績が上がります。 ついでに「書いた答えに自信がある?」という確信度を取ってみますと、確信度が上がります。今度はみんなで確かめているからだいじょうぶ。それは当たり前だと思うでしょうか。実は2度とか他人といっしょに解いたら解けそうと言うことは事実として出てくる。 では、大学生分数をできなくて大変だと言われている事実についてこの話は何を言っていることになるのか。経済の研究をするときに数学的なモデルが作れなかったら困るでしょ?会社に入ったときに計算もできなかったら本当に困るよね。困るとは思いますけども、1人でやらなくてはいけないでしょうか。できないとわかったときに、自分でこれが必要だと思ったら、自分で学び直しに行って、そのときに2〜3人で手分けして学んでそれを寄せ集めて、高校の時に学んだ時間の10分の1くらいの時間で、高校の時よりも正確な、確信の持てる答えが出るようになったらいけないのだろうか。こういったところの考え直しが実は協調活動を通して学びをどうするといった話で出てきます。いっしょにできるようになったらそれでいいのか。これは、学生達の確信度が上がって「今度の方が安心だよね」という安心感が目的なのか。 これをバラにしてみると1回目よりも成績は上がっています。1回目よりは成績を上げるための協調活動。だけど最終的にはまた1人のところに戻していくのか。どこを協調でやって、どこを1人の知識でやっていくのか。何のための協調なのか、ということを考えるために私たちは1人でやるときに何ができるのか。たくさんでやったら何ができるのか。ということの中身を見ていく必要があると思っています。 (17) なぜ協調活動なのかと考えたときに、私たちの立場から言うと協調活動ということによって問題ができるようになった。実際に時間をかけて協調活動をやっていくと話し合って確認してやっていくということですから、めんどくさいということがでてきます。しかし、やっぱりその過程を通じて理解が深まるんだ。今ここで身につけた知識というのはどこで使えるかという適応範囲が広がっていくのだ。これはスケールの小さな実験をやっていくんですけども、こういうことでわかってきます。こういった効用がありそうだから協調活動を行うのであって、いっしょにやってもらうとみんなが元気になるんだよね。とか、1人だとやらないけど、ネットの上でつないだらネットでつないだことがおもしろくてやってくれる、というモチベーションの問題だけではないというふうに感じています。 協調活動で何かできるといっても協調活動に入っていくのは個人ですし、出てくるのも個人です。そうするとその個人というのは協調的な知的な創造活動というものにうまく参画できるような場面設定をする、ということが教育の場をデザインしていくということではないかと思います。 (18) その協調による理解進化が人を巻き込む話なので、協調的な学習というのはひとつの文化なのだろうと思います。文化自体を作っていくことが学びの場には必要で、それを作るのにテクノロジーが果たせる役割があるだろうと思っています。 先ほどご紹介したIQ Raiserというのが私たちの中ではそういった試みのひとつです。 (19) 活動の話の次に評価の話なんですが、本当に3つどもえの話で、できることをはかる評価をしてきたのだけど、できることに至るプロセスとか、どうしてできたのかというメカニズムははかってこなかった。これをはからなくては、ということを今、教育系の学びに関する科学というのがなってきていると思います。 できることをはかりますので、成果もさっきのトップ10%というものを出しましたが、活動そのものをはかれるわけではありません。他人の意見を聞いて考えを深めるという目標ができたときに、何を先生達がはかろうとするか。やっぱりはかれるのは他人の意見を聞いてというところなので、昨日聞いた実践ですと、クラスの中でいくつくらいの討論をやった。その後Webの上の掲示板に意見を出すという授業をやった。あるいは高校生が4つくらいの短編小説を読んで、感想を一覧できる掲示板にあげた。そうしたことで学生達がどんな感想を持ったか。いろんな人の意見が聞けてよかった。人はいろんなことを考えることがわかった。いくつの意見があったのかは、はかることができます。他人の意見を聞いてよかったと言うところまでははかれますが、本当にやりたかったのは考えを深める方だったと思うのですが、これをどうやってはかったらいいのかわからない。 これは認知研究者の怠慢で研究者の責任だとは思いますが、これははかれないから、はからないことにしていました。これから評価込みで教育を変えていこうと思うんだったら、考えが深まったと言ったときに「何センチ深まった?」というような話ができるようにならないといけないだろうと思っています。 (20) 結局今のところまだ学びの目標、活動、評価を全体として変える指針を得るために手探りの状態です。この手探り状態を手探りしていたらおもしろいから、新しい研究実践活動としてみんなでいっしょにやっていこうという動きはあると思います。 IE99、IE2000ということもそうですし、日本の中に他にこういったインターネットを使った協調学習のために集まりはたくさんできていると思います。アメリカでもラーニングサイエンスという言葉がかなり聞かれるようになってきて、それ用の研究会の少し大きめのものなどがあるのと同時に、それらが、老舗の大きな研究教育学会の中で大きなグループになってきています。昔から平行セッション40〜50の大きなアメリカの研究教育学会に行ってみるとけっこう人が集まっていて、人が集まっていないけど、激しく議論をやっているのがラーニングサイエンス系で、言ってみると工学系の人がいたりメーカの人がいたりということもあります。 (21) 学びの科学とは何なのか? やっぱり私は認知科学から来ていますので、賢さとは何なのかということをある意味、科学的にとらえ直すことができるようになるべきだと私は考えています。ただそれだけじゃなくて、「賢さってこういうことらしいですよ」ということを私たち研究者が題目として出す。それで学びの科学ができあがるということではなくて、実際にテクノロジー(道具)私たちの知恵を使ってそういった賢さをどうしたら引き出すことができるのか。教えてみたり、工夫したりしたことで、トップ10%の生徒達がすごくがんばってくれて、ここまでやってくれた。後の90%をどうやったら支援できるのか。それがリサーチクエスチョンだと思います。そこを動かしていってどうやって、どこまで支援ができたのか。その過程の中で実際に教師がどこまで教え方が変わるのか。学生同士が、学生自身がグループで、どういったプロセスで変わっていくのか。ここを研究する人たちが必要で、そこの知見使って実際に学びを変える試みをやって最初の方が仮説を立てることになります。後の方から仮説を検証することになります。それを併せてひとつの科学を作っていく必要があるのだと思います。 教育心理学、心理学はこういったことをやってきたんじゃないの?とも思いますけども、ちょっと違うのかも知れません。私自身が自分の授業に対してうまくいかなかった。もう少しテクノロジーを変えて、教え方も変えて今年はうまくいくかな、といったことを毎年毎年やっていますが、それは実験群なんですね。それに対して、心理学系のところにペーパーを出そうとするとこれは実験群で、めいっぱい手当をするクラス。それがうまくいくかを見るために全然手当をしないクラス、コントロール群というのを作って、実験群の方が点数が上がったでしょ、ということをやる気は全然しませんし、やっても仕方がないと思っています。仮説はこれでうまくいくかを賭けたいわけですし、私学でお金をもらってやっていますので、絶対うまくいかない授業というのを実験研究目的のためにやるというわけにもいきませんし、そっちがうまくいかなかったら研究的なところだけ考えても、私の気が乗ってきませんし、そこでうまくいかなくてもうまくいかなかった理由はたくさんあるわけで、そういったことは研究としてはやらないでしょう。またそれをやるような科学ではないだろう。逆に言うと学びの科学を作っていこうとしている仲間達の仕事を見ていても、ペーパーのためにコントロール教室を作っている人は大きなプロジェクトをやっているところでは、ほとんどありません。科学なり、賢さについてのものの見方そのものが、変わっていくという時代に来ているんだと思います。 (22) そういった中から、今私たちがわかっている賢さとは何か。私自身は学生とも議論していて、これが定義できていないと物事が始まらないと言うところではあるんですけど、やっぱり何か物事が解けましたということではありません。場が変わったら、問題が変わったら教えてもらって解けるようになった、その力を使ってここまではいけるのではないかという、ここからはわからない、ということができる。場の変化に適応できる力が賢さだと思いますし、これだけやっていると、これだけ世の中の変化が激しければどこかで、いわゆるデジタルデバイドというようなことをいわれたときに利益を教示できないために落ちていってしまいます。やっぱり自分たち自身がどういった変化を起こしたいのか、変化を引き起こしていける側に立つ。それが賢さだろうと思っています。 これを生きる力ではなくて、私であれば認知科学のこの論文わかった?というコンテンツでやりたい。物理の先生だったら力学かも知れません。英語の先生だったらとにかく仮定法、過去というものを使えるようになると、会話力というのはそこでものすごく上がります。それをとにかくやらせたいということかも知れません。そういった特定のコンテンツでやりたい。 (23) それを作り出す手順として私たちが仮説的に使っているのが、自分自身のやっていることをできるだけ見直せるようにして、見直すことによって自分自身の知識を作り直す機会を保証して、実際作り直してみたときに、新しい問題が解けるのか、新しいプロジェクトをやるときに役に立つのかという実行力を持っているかどうか試す。 それをテクノロジーによって支援するという形でやりたい。テクノロジーがないとほとんどできないという気がするので、ここにテクノロジーが入っています。 (24) そのために具体的に学ぶ人間は何をするかというと、外化がそのひとつです。考えていることを外に出す。その外化されたものを共有する。外化されたものの間を関連付けて、関連付けることによって自分なりの新しい意味というものを見つけていく。その新しい考え方を、実際にそれで問題が解けるか、またそれで人に説得できるかどうかでもですが、吟味していく。ダメそうだったらもう一度、自分の変わったところを出してみて、他の人の出しているものとつなぎなおしてみる、というサイクルを回すことになります。 (25) テクノロジーがそれをどうやって支援するかというと、外化というのはどうやって記録を取るかということです。作文をしているときに最後にできあがった作文を出してもらうのではなくて、「途中で書いているものをどんどん出してください」「それをクラスのみんなが見えるようにしておいて下さい」「思いついた質問があったら先生のレクチャーノートのその行にこんな質問を考えましたといった感じで書いてください」というレベルの外化です。クラスの中では、「聞いてわかったことは時間を取りますから、周りと話をしてみて下さい」「それでこんなことができるんじゃないの?という話にいったらモデルを作ってみてください」という類の外化、記録の取り方。認知過程そのものの記録を取ること。その取った記録を共有するのにネットワークが使えるだろう。ネットワークの上でたまってきたものにリンクを張って、構成し直して、その構成し直した知識を使ってプロジェクトをやってみて、プロジェクトができれば、うまくいっているかということを情報発信するような形で試していくというようなことができる。いろんなプロセスを回すのにどうしてもテクノロジーが必要になってきます。 (26) こういった外化、再構成、再吟味を活かすようなカリキュラムデザインの要点というのは、学生自身が何をどこまでやればいいかわかるような、ここに学生の経験、既有知識というのはものすごく効いてきますけども、それをうまくつないでこういったことをやってほしい、なぜそれをやったら意味があるのかということがわかるようなプロジェクトを設定して、これが分かってほしいというような中身を盛り込んで、実際にその答えの断片というのは本人の既有知識もありますし、ネットの上の情報というのも相当ありますし、隣の学生が考えてくれた答えというものも、ちょっと待てば手に入りますし、情報はそこにあるので、当面はそれを作ることが目標ではない。最初に検討材料があって、検討材料がどこへ行ったら見つかるかということと、検討材料らしきものを拾ってくる、センスがないと拾ってこられませんけど、拾ってきたものをどうやって関連付けて、実際にどうやって使っていったらいいのかを考えるところ。自分がうまく関連づけできているか、自分がいいものを拾ってきているかという、自分が評価できるような仕組みが必要です。これらのような要点が入っているカリキュラムが必要だろうと思います。 (27) うまくいってそうな例と、私たちが「ここはうまくやっているよね」、という例とかそういうこと考えて、じゃぁおまえのところは何をやっているのかという実践例をおはなししてみますと、バークレーがプロジェクトのリーダーをやって、実際に高校でやっている。そこの先生が中学高校レベルの理科の授業のひとつです。総合的の学習に近いようなことをやります。 (28) 環境問題を取り上げたり、例えばひとつのテーマがDDTは禁止すべきが、というような話を持ち出してくる。カチッとしたカリキュラムがキモだと思うので、すごく乱暴になってしまうのですが、いろんな宿題を出しておいて、禁止すべきかどうか、という議論をクラスの中でやってもらう。そのときに虫が死んでしまうような強い薬をまだまいているなんて信じられない、という話になったときに「じゃぁなぜそれを使うんだろうね」というようにもっていって、アフリカで国の政策でDDTをまいているところと、1才未満の乳幼児の死亡率をマップを使って色を合わせみる。これはクリアーにDDTをまかなければ1才未満の子供は死なないという結果がでてきます。こういった材料をもって簡単に禁止できないのかもしれない。専門家は何を考えているんだ、という意見が見えるように、問題を考えている大学の研究所や製薬会社の研究部の人たちで、こういった問題に発言をしている人たちに、大学がWebページを提供して、そこの上でいろんな議論ができるような支援をする反面、そこの議論を高校の授業で使わせてくださいという契約を結んで、学生達がそういった意見を見に行く場所を作ります。 そうするとプロはプロの言葉で語っているんですね。「何を言っているかわからない」「薬の名前がいっぱいでてくる」「これは何なんだろう」こういったことがわからないとDDTを禁止すべきかどうか、その人達がそういった政策で選挙に出てきたときに投票していいかどうかわからないんですね。この話というのはみなさんが読んでわからないと困る。じゃあ、勉強しましょうよ、といったところで実際に教室へ戻って「分子式ってこうやって読むんだったよね」というような勉強をする。その場でニーズがあって、学生の目の色が変わってから勉強をする。というようなことをやっておいてクラス内で討論をやって、最終的にはプロの人たちがいる掲示板の中に、クラスの中では禁止すべきか、そうじゃないのか、どうしてそう思うのかということをみんながいちばんいいと思った意見を投稿しよう。ということをプロジェクトの目的にして勉強をしていく。それの副産物として、Webの上に薬関係の記事とか宣伝もたくさんありますが、そういった記事のところへ行って科学的にいい記事かどうか。あるいは薬の広告の評価といったこともやる、といった授業が組まれています。 (29) 実際どういった評価をするかというのは非常に難しいですが、やっぱり分子式などの基礎的な科学知識の定着をはかってみると、うまく定着している。高等学校ではサポートしきれないところまで学生達の目が向くようになる。この場合は化学ですけども、そういった化学と社会との結びつきを学生がわかるようになってくる。Web、その他の一般情報源が私たちの学ぶリソースとしてものすごく発達してきているが、そういったものに対しての批判的な態度を養うことができる。 最後にやっている人たちが、デモビデオをもっているのですが、その中で彼らがいちばん喜ぶというか、こういった所を狙っているんだろうなというのででてくるのが、さっきの評価からいくと甘い評価になってしまうのかも知れないけど、このコースを受けた学生が、最初は化学があまり好きではなかった学生が、「I want be a scientist」といって授業を終えていく。そういったところが狙いのひとつなんですね。化学に対して、化学っておもしろいんじゃない、といって自分のレパートリーのひとつにしていける。そういう学生を育てたい。これはうまく行っている話だと思います。 (30) では私たちのところでは認知科学、特に学びに関する認知科学をどうやって教えていくのか、ということを考えると、だいぶ泥沼風ではあるんですが、いくつかやっている実践をまとめてご紹介します。 (31) 例えば、今のような実践がなされているアメリカの中でのサクセスストーリーのようなものは、有名どころをもってくると5〜7つくらいで、10はないような気がしますが、そういったものをクラスの中にばらしてしまって、自分が調べたものを他の人に教えるJigsaw形式で教えていく。 (32) その時にプログラムを担当するというだけではなくて、それぞれのプロジェクトの中には背景となる教育哲学の話もありますし、テクノロジーがどう使われているかという話がありますし、カリキュラム自体をどう具体的にまわしていくのかという話もあります。これは学生によって哲学が好きな学生と、テクノロジーが好きな学生と実際に授業をどうやって組んでいくのかということに興味がある学生と好みがあるので、それをまた担当を決めておく。そうすると3×5の15のうちのどれかの担当になるはずですので、そうしてうまく組み合わせて、最終的には授業改革案を提案してもらうということをやっています。 45人のクラスであれば31のスライドのような成功例5つと、哲学の「P」と、コンテンツ・カリキュラムの「C」と、テクノロジー・ツールの「T」というような3つのグループに分けて、 (33) 「最初はCSILEってなに?」というのを9人くらいで、PedagogyならPedagogyを調べる3人くらいのグループして、最初はみんな同じことを調べます。CSILEを支えている教育哲学はこういうことらしい、ということを哲学の「P」と、コンテンツ・カリキュラムの「C」と、テクノロジー・ツールの「T」のそれぞれ一人ずつを集めてグループを作って話し合ってもらいます。CSILEとは何か、という話ができるグループが3つできるので、そのそれぞれのグループの中でまとめ方を話してもらうと、ほとんどの人がCSILEとは何かということがだいたいわかる。 (34) というようなことをやった後で、CSILEだ、Jasperだ、というように全部同じような図式ができてきますので、CSILEの「P」をやった人間とJasperの「P」という人を集めてくると、この5つのプロジェクトを通して、こういったことをする教育哲学とは何かというようなことを話し合うことができる。 (35) こういうことをやった後で、「P」をやった人と「C」をやった人と「T」をやった人を3人集めて、大学の英語の授業を変えるにはどうしたらいいか、というプロジェクトとして提案してもらう。ということをやっています。 似たようなことを半期ぐらいでやりますので、途中で学生達が発表を調べてというようなことをして、授業がほとんどタイムキーピングになってしまうので、後はその発表の時間で、その時間の外で調べてきてもらってというようなことになって、教師の側もそのための材料を準備したり、ちゃんとネットが動いているか見ているということが仕事になって、所々で「Pedagogyはこういったことでね」ということを話したりはしますが、学生は学生で調べていますから、「ふーん」といった顔をして聞いている、ということが起きています。 いろんな冒険をしていますが、最近、集中講義でこれを3日間でまわすということをしましたが、私も学生もヘトヘトになってしまったということがありました。こういった枠さえあれば3日間でこれだけのことをすることができます。 (36) こういったことをしていると、今のタイトルだけではなくて、問題解決論をこうやってやってみるだとか認知科学の概論をやってみるだとかをやっていますが、そういった実践の成果としておおざっぱにまとめてみると、内容的にはグループの中でそれぞれが調べた事というのは、ひとつひとつ調べるのは授業の中で30分かけて聞く仕事を3週間賭けて調べる。時間はかかりますが、お互いの調べてきたことの交換をしていくので、クラスの中で全体的に扱われる量は講義のみの時とほとんど変わりません。 担当してきたことを自分の言葉で説明することができる。これだけやってきたらそういった気になるんだと思います。説明してくれるようになりますし、実際自分が調べたことだけではなくて、他の人たちが調べてきたことをつないで、「全体としてこういう話だった」というレポートを見ていると構造的な理解をしようとしてくれています。 だからここまでわかったからこの次はここまで必要でしょ?ということを聞いてみるのですが、聞くと答えるようになる。こういうようにやるようになって、統制論実験をやらないとお話ししましたが、自分が4〜5年前にこういったことをやらないでやっていた授業と比較をしてみると、そこで何がいちばん違うか。自分の中でも発見だったことは、講義をものすごくうまく構成しているときは、全体的な構造で、いろんな似たようなプロジェクトがアメリカにはあって、「Pedagogyはどこも似たようなものなんだよ」なぜなら「賢さに対する認知科学の発展があるから」というのは話を作る私自身がもっていたんですね。それにあわせて講義をしていくわけですけども、学生にとってはその構造が見えているわけではないということです。と言うよりは私が授業の中で話したこと全体を構造付けて何を話したのか、全体としてどうなっているかということをまとめてレポートを書くということを要求しようとは思っていませんでした。 学生はその話をシーケンシャルに聞いていって、順番に聞いてくれたんだから、私がもっている構造は、そのシーケンスでつかんでいるでしょう。具体的にレポートとしてはその中のひとつ、あなたが気に入ったプロジェクトについて感想を書いてください。それでレポートとして十分だと思っていました。その中にたまにCSILEをとりあげて、その背景を書くような学生がいるとこっちはビックリする。しかしそれを伝えたくて授業をやっていたので、本来はそれを求めるべきだった。そういったことがテクノロジー込みで授業をやってみて初めてわかるということがあります。 (37)(1'01'45') 認知科学、心理というのはカチッとしたところがありますから、こういったことを話すと理数系の授業に向いていると言われますが、原則、どんな授業でもできると思っています。 (38) そのためのテクノロジーとして私たちが使っているのは、基本的にはノート共有型のシステムですけども、 (39) ひとつこういった授業で実際に使っているのは、ブラウザ上に窓を4つ作って自分でコメントを書きたかったら直接Webの上で書けるようにしておく。タイトルを付けてノートを取っておくと、そこのノートをタイトルから開けるし、資料もメニューから開いてもらえる。コメントや資料を関連付けて、コメントをリストにしてあげておく。記事を読んでその記事についてのリンクは右側にでているので、誰かがつけたリンクをクリックするとその内容が下の窓にでてくる、というような形のものです。 ノート共有のシステムをお互いの間で関連付けて、どうやって構造化していくか。その構造を見えやすくして、その構造自体を共有できる。実際やるときは、どう関連付けたのかをクラスの中で発表してもらうこともやって、といった形で進めています。 (40) ものを読むためには、何を考えながら読んでいるのかわからないので、1文1文をカードにして並べていって、それをどうやって並べるのかということを、一人がカードを並べてもう一人が見ながら、「なぜそこにカードを置くのか」という形で、読みの過程を共有するつもりで作ったソフトなんですが、やっているうちに自分の考えたメモだとか先ほどのIQ Raiserのコメントだとか、先ほどのノート共有システムのノートといったものと同じで、2次元的につないでいって別の見方ができるということになってきています。 今、私たちのところでは学生達が作ってそれなりの実績を上げてきたソフトを統合していきたいと思っています。 (41) こういった所からでてくるデザイン指針としては、学生が既に知っていることを上手に引き出す事、それを吟味の対象にするを出発点にする。一人一人が知っていること、考えていることはどうしても違うので、「違うからこそ比較検討する意味がある」という確認をを繰り返し行って、実際に自分の考えていることを外に出してそれを他の人が出したものと比較をしていく。 そして他人、他グループ、先生が提供してくれたものなど、違う場所で手に入ってくる資料を関連付けて、自分が知っている知識を作り替えながら再構成していく。こういったことを具体的に起こすような授業デザインができたらいいんだと思います。 (42) 先ほど、私はプロジェクト対象授業が好きだとお話ししましたが、いちばん力を入れているというのは語弊があると思いますが、いろんな授業を先生方はやってらっしゃると思います。ひとつだけやっている先生は少ないと思うのですが、そういった言い方ができないかと思いますが、気に入っている授業のトップ10%の学生に見られるパフォーマンスを、その他大勢の学生からも引き出したいとしたら、こんな工夫ができるのか、といったことを考えていただけるようなヒントになったでしょうか。 (43) (44) (45) (46) 最後まとめです。 教育が変わるのか、私はおそらく変わるだろうと思っています。そこにUnex.comというのを出しているんですけども、大学ではない、産業ビジネスが本気で認知科学者をたくさん抱えて良いプロジェクトを起こして現場教育みたいなことをはじめています。 (47) 北米に大きな実践プロジェクトがたくさんあって、大学の中でもネットワークを使って授業を共有している、バーチャルにしかないものがたくさんあって、開講科目1500以上と書いてありますけども、これは3月に調べたものなので、今はこれが倍になっていても驚かないというような勢いで物事がおきています。 大学だけじゃなくて、情報産業の、特に本屋が自分たちの売っている本を電子的に提供して、その著者が自分の最新の話をどんどんそこに載せていく。若くて、本屋から本を出したいと思っている人たちのものを、安く電子的に乗せるといったことをやっている。そこでひとつの「知の拠点」のようなものを作る。それを商売にしようとしているところはたくさんありますので、そういったものをうまく使った学びが、草の根的に起きてきたら本当に教育は変わると思います。 (48) 日本の大学はそれを受けて変わっていくかというと、なかなか時間はかかるとは思いますが、実質的な教材共有を5〜6つの大学で、経済の教材中心にはじめるという動きはありますし、これだけやるには大してお金がかからない状況です。 入試も大学の方がネットの上で私たちがこういったことをやっているから、これがおもしろいと思う人はネットの上でしばらくやってみる。そこでその人におもしろいレポートが書けるようなら、率先して推薦入試の枠をあげる、といった動きが実際に起きてきています。成績の付け方、大学から見てみると学生の売り方というものも、この学生は偏差値いくつのどこの大学から出てきたのかということではなくて、学生が実際に私のプロジェクトの中でやってくれたことをホームページに上げておいたら、今までに1件ですけどもそれを頼りに買っていただけたといったことがありました。といった感じで大学も変わろうとしていると思います。 (49) これは大学、教育制度の中で学校といわれるところが中心に変わっていくというよりは、社会全体として知識の再配分が起きている。その中で、学びをとらえ直す必要があるだろうと思っています。必要なときに必要なことが学べればいいのであれば、いいカリキュラムを作って、いい教材を出せるところが勝ちます。それが大学である必要は、もはやなくなってきているし、そこの場では何が起きているかというと、いい教材を作れるトップの仕事をしている人たちのところにそれを学びたい人たちが入っていく。プロ集団への参加としての学びが起きていますし、プロ集団自体が本物であればそれ自体が変わっていきます。そういった意味では、固定的な教科書があって、演習問題が解けたら終わりという学びは、明日にでもなくなってしまうというのは、はやすぎるかもしれませんが、なくなってしまった方が学びというものを見直しやすくなるのでは、と思います。 そういった世界の中で考えてみると、自分が入っていきたい集団の中にいる人は全部教師なんですね。たくさんいて教師は一人といった状況の中で自分で学んでいく力というものを私たちは持つ必要があると思います。私も持つ必要がありますし、つきあっている大学生も持つ必要がありますし、学生が子供ができた親になったときはもっとそうだろうと思います。 (50) 学習者が、市民がといい変えてもいいかもしれませんが、要求される自己学習管理能力のレベルが高くなってくる。自分が何をどんなレベルだったら学べるのか、今自分が何を学ぶ必要があるのかということを決めて、うまい学びのソースを、うまいカリキュラムを選ぶことのできる人が学べる人、ということになってくる。そうすると、教育の場に残された責任というのは、そういった自己学習管理能力そのものを身につける手助けをすること。学べる人を助ける方法と、そのためにはテクノロジーによる支援が一時的にではなくて、自分の使える道具としてどうしても必須になってくると思います。そういったものを使いやすい形で認知的に力のあるものを開発して学ぶ力を育てていく。それがInteractive Educationと呼ばれるものが明らかにしなくてはならない。その中で研究者の立場からいうと、学びのプロセスの研究が明らかにしなくてはならない。そういった形での学びの科学というものが日本の中でもさかんになればいいと思っています。 (51)